ジャン=フィリップ・トゥーサン(野崎歓訳)『浴室』
これまた長い間積読になっていた本。一度機会を逃すとどんなに読みやすい本でも読めなくなってしまう。
「直角三角形の斜辺の二乗は他の二辺の二乗の和に等しい。」というピタゴラスの定理が献辞の代わりに書かれている。主人公が浴室にひきこもったまま外に出なくなる話かと思っていたが、やけにあっさりと、冒頭から11段落目(すべての段落に番号がふってあるので数える必要はない)で外に出てしまうのだ。でもそれは何の解決でもなく、というよりそもそも何が問題か本人さえわからない。
ひょっとすると、主人公は時間が進んでいくことに神経症的な恐怖を覚えているのかもしれない。そのせいかどうか、この本の中は時間はあっちに飛んだりこっちに飛んだりしてよくわからなくなっている。二番目の章でベネチアに発作的に旅行に出るのは、浴室に閉じこもる前と考えたほうが自然だが、そう考えても謎ときができるわけではない。1番目と、3番目(最後)の章のタイトルが「パリ」で、二番目が「直角三角形の斜辺」なのは、冒頭のピタゴラスの定理からして、小説全体が直角三角形の構造なのを暗示しているように思われるのだけど、それが時間の流れとどういう関係にあるのかはうまく説明できない。
ひとつひとつの段落が番号つきなのはさっき書いたが、まるで一枚のスティル写真の説明のように簡潔で詩的な文章で書かれている。撮りためた写真をシャッフルしてそれにもっともらしい説明をつけたらこの作品ができあがったと考えるのも楽しそうだ。
★★