東浩紀・大澤真幸『自由を考える―9・11以降の現代思想』
最近よく名前を聞く東浩紀の本を一度読んでみたいと思って、書店の棚に積んであったのを手に取ったのだが、最近出たばかりでかなり売れているらしい。
従来の権力は規律訓練型で、個人の内面に干渉して集団の規律を守らせるようにしようとしていたけれど、「大きな物語=第三の審級=理想」の凋落とともにそういう権力は力を失っている。代わって登場してきたのが環境管理型の権力で、個人個人の多様性を尊重しながらも、テクノロジーの力を使ってそれとはわからない形で人の行動をしばってゆく。後者の例としてあげられていたのが、マクドナルドの椅子だ。わざとかたくして、長時間座れないようにしてある。それによって、利用者は自分がゆっくり食事をするという自由を奪われていると感じないまま、その制約にしたがってしまう。つまり、人が従わないのなら環境の方を変えてしまおうと発想だ。街角に監視カメラをおいたりするセキュリティ強化も環境管理に含まれる。
この新しい権力を批判するのはとても困難だ。誰も自由を制限されているとは感じないし、実際のところ制限されているのはどうでもいいようなことや犯罪的な行為だったりする。
こういう権力の移行と並行する形で、人が「動物化」するという現象が進んでいる。つまり、権力から「理想」を押しつけられることがなくなって、人は自分の好きなことを好きなだけできるようになったんだけど、他に働きかけて環境を変えようとしたり、精神の中にある葛藤を昇華させたりする人間らしい営みがなくなって、ただ動物的に欲望を感じてそれを満たすというサイクルを繰り返すだけになっている。その結果、人は自分だけの世界や、趣味を共有する仲間うちだけの島宇宙に閉じこもって、他者との共感を感じられないようになっている。なお、環境管理型の権力は、人間の中の動物の部分を管理しようとする。
という問題提起があって、それに対する解決方法が話し合われる。その中でポイントになるのが「匿名性」だ。環境管理型の権力によって奪われるのは「匿名性」であると考える。匿名性というのは自分が誰かほかの人間でありうる(「偶有性」)ということを保証するものであり、それが人同士の普遍的な共感の基礎になるのではないだろうか、とこれから先の思索の入口を示すところで対談は終わっている。
ここから先が感想。
とても刺激的な対談だった。これから先、別の本を読んでから何度もこの本を読み返すことになるのではないかと思う。
ジョージ・オーウェル『1984』に描かれた権力はシビアなものだったけれど、もっとマイルドに同じようなことができる。ぼくの目からみると、今の権力は確かに環境管理型を目指そうとしているものの、一部に規律訓練型の部分を残していて、9.11テロ以降、環境管理型と規律訓練型が手を組んでいるようにも見えるのだ。テロ警報下という環境を作り出して、人間の動物としての部分だけでなく、人間的な部分まで管理するのに成功しているのではないだろうか。そこでは一応言論の自由は守られているのだけれど、その言論の内容が意味を持たなくなるように、言葉の意味が微妙に変えられている。この理解が正しいかどうかまだわからないし、過渡期的なものなのかもしれないが。
★★★