フィリップ・ロス(柴田元幸訳)『プロット・アゲンスト・アメリカ』
タイトルを直訳すると「アメリカに対する陰謀」。1940年のアメリカ大統領選で例外的な三選を目指していたローズベルトではなく、共和党から立候補したリンドバーグが勝利するというもの。今では大西洋無着陸飛行の英雄としての側面しか伝えられていないけど、実際、彼は反ユダヤ、白人優位主義者でナチシンパだったのだ。その架空の歴史の流れの中で、ユダヤ人である作者自身(物語の中では6〜9歳)とその家族にじわじわ忍び寄ってくる恐怖がクロニクル形式で綴られてゆく。
リンドバーグが御旗に掲げるのは「平和」だ。欧州の戦争に参加させようとしているのはイギリスとユダヤ人とローズベルト政権だと息巻いて支持を獲得する(実際の演説で言っている)。平和の中にも邪悪な平和があるしかいいようがない。
政権についた後、リンドバーグは、ドイツと中立条約を結ぶとともに、ユダヤ人の同化政策を行う部署を設立し、当選に貢献したユダヤ人聖職者ベンゲルズドーフを局長にまつりあげる。彼らが企画した夏休みキャンプに参加したフィリップの兄サンディと他の家族の間にすきま風が吹くようになり、さらにベンゲルズドーフと彼らの叔母が結婚することになり、家族に深刻な亀裂が入っていく。そうしている間にも反ユダヤ主義の空気がまわりにどんどんひろがってゆく。やがて、転勤という形でユダヤ人のコミュニティーを解体するための施策が行われるが、フィリップの父は抵抗し職を失う……。
途中までSF的な突飛なところはどこにもなくて一歩歴史の歯車がずれればこうなっていただろうというリアルさに驚く。実際共和党からリンドバーグに立候補要請があったようなのだ。
基本的にそういう政治的な事柄は背景として描かれ、前面にでてくるのは家族の物語だ。ユダヤ人でないものになろうとして家出を企てたフィリップのエピソードはどこか微笑ましいし、孤軍奮闘する父親の姿にはペーソスを感じる。おそらく背景は架空でも個々の出来事はある程度リアルにあったことなのだろう。この家族のその後の姿が気になる。
終盤急転直下の展開が待ち受けていて手に汗をにぎってしまう。『プロット・アゲンスト・アメリカ』というタイトルは、フィリップの叔母がリンドバーグ夫人からきいたという「告白」からきている。それがフィリップの叔母の妄想なのかどうなのかは最後まではっきりしないままだ。
発売当時から気になっていたが、ようやくここにきて手に取ったのは、同じナチがらみの歴史改変小説『高い城の男』を読んだ流れからだ。これ以上のタイミングは考えれなかった。読んでいて思ったのが、今の日本の状況と通じるものがあるということだ。人事で首をすげかえ、ひとつひとつ法律を通して、じわじわ正しさの概念を書き換えようとする手法が今の政権と似ているのだ。もちろんこの小説に描かれたユダヤ人の境遇とは比較にならないが、それでも恐怖を感じる。なにせ、人権を制限する憲法案を公然と掲げ、今の憲法を骨抜きにする法律を強引に通す人たちが国会で大多数を占めているのだ。どんな法律が通されてしまうかしれたものではない。
最後に気に入った一節を引用しておく。
子供にとって、これは要するに、人は何か正しいことをすれば必ず間違ったことをやってしまうという発見にほかならなかった。実際、その間違ったことは下手をすればものすごく間違っているから、混沌が支配し、すべてが危険にさらされている現状にあっては、手をこまねいて何もしないのが一番のように思える。とはいえ、何もしないということもやはり何かをすることである……いまの事態にあっては、何もしないというのはものすごく多くをすることなのだ。