パウロ・バチカルビ(田中一江、金子浩訳)『ねじまき少女』

ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)ねじまき少女 下 (ハヤカワ文庫SF)

何となく手を出しそびれていたのはタイトルや帯の惹句から、一種のラノベなんじゃないかと思ったからだ。そんなことは全然なく、技術や人類の未来についてとても深く考えさせる硬質な物語だった。

舞台はおそらく今から100年後くらいのタイ。石油の枯渇、温暖化による水位の上昇、遺伝子操作による疫病と害虫の蔓延と食糧不足により世界では、戦争、内乱、虐殺が相次いで発生し、害虫や病気に免疫性のある穀物遺伝子の特許を保持する企業が権力と富を独占している。そんな中タイは独立と自立を維持する数少ない国の一つだった。この過酷な世界、そしてそこで起きようとしている政変を、5人の立場が異なる人の目からとらえている。

穀物メジャーから極秘裏に調査員として派遣されタイ国内で開発された新たな果実の謎をさぐろうとするアンダースン、隣国マレーシアの民族浄化で財産を没収、家族を皆殺しにされ、ただ一人身ひとつで逃げ出してきた華僑ホク・セン、タイの環境省(立場的には排外派)に属する実力行使部隊白シャツ隊の隊長ジェイディーと複雑な過去をもつ女性副長カニヤ、そして日本製のねじまき少女エミコ。ねじまきというからロボット的なものかと思ったけど、遺伝子操作で生まれた人間の新種なのだった。ねじがついているわけではなく、動きがぎこちないところからそう呼ばれている。

その中に善良で無垢な人は誰もいない。自分が生きのびるためには手を汚しているか、なにがしかの信念に従っているとしてもそれは、他の人々を傷つけるものなのだ。みなが共有できる善悪の基準は安定した社会でのみ可能なのだ。誰に対しても完全には感情移入できなくて、部分的に共感していくしかない。だからこそ、この危険で絶望的なディストピアの姿を多面的にとらえることができたような気がする。

ラストシーンは現人類にとってはある意味破滅的な予兆を感じさせるけど、この作品を読んでいてはじめて開放感を感じた瞬間だった。

実際、こういう未来がきてしまう確率はかなり高いような気がして、どうすればそれを回避できるのか、そろそろ考えはじめた方がいいんじゃなかろうか。白シャツ隊のように閉じこもって異質なものを排除するやり方より、ぼくとしては科学技術に賭けたい。もちろん結果的に悪い結果をもたらしてしまう可能性は常にあるが、それ以上の速度で先回りして防止できるようにしていくしかないと思っている。

蛇足だが、日本という国の描かれ方がおもしろかった。タブーと無縁でねじまき娘を製造する国という描かれ方をしているが、ちょっと違うような気がする。日本人は無宗教のようにみえて、実は自然崇拝教徒で、特に生体や食物に関して人為的なものを穢れとして嫌う傾向がある。そうすると、ねじまき娘のような遺伝子操作による「モンスター」はキリスト教圏の国々と同様受け入れられにくいのではないだろうか。あと、ミシモトやヤシモトという固有名詞のずれぶりや、墨絵に茶というステレオタイプが、『ティファニーで朝食を』のユニヨシを想起させて、よくある誤認や古い偏見を繰り返しているのか、意識的にずれた音韻を使う伝統にオマージュを捧げているのか、どっちなのだろうと考えてしまった。

★★★