佐々木敦『未知との遭遇 — 無限のセカイと有限のワタシ』
映画、音楽、文学、そして最近は演劇分野など多方面でエッジの立った批評活動をしている佐々木敦さんが書いた、ちょっと不思議な「自己啓発」本。筆者自身が体現している、結果をおそれずに積極的に様々な未知なものに遭遇する生き方をオルグしている。ただその説得の仕方がとてもユニークで、著者も認めているように誰が啓発の対象なのかがとても謎なのだ。だから、ここに感想を書くこともとても難しい。
本書は三日間×A,B面の計6パートから構成されている。
- 一日目 無限のセカイと有限なワタシ
- A面 世界の果て?
- B面 おたくからオタクへ
- 二日目 タイムマシンにお願い
- A面 偶然について
- B面 運命について
- 三日目 UNKNOWNMIX!
- A面 不可能世界論
- B面 未知との遭遇
一日目は、インターネットの発達によるコンテンツ受容の変質、特に、ある分野の全貌を一覧することが可能になり見通しがよくなったことが逆に「無限」として感じられてしまうことによる生じる困難について語られる。二日目は、偶然と運命という一見正反対のものをアウフヘーベンするような筆者独自の考え方「最強の運命論」=「この世の出来事は理由抜きに起こり、なおかつすべてが決まっている」への導入。そして、三日目はこれまでのまとめで多様なものと未知なものを擁護していく道筋みたいなものが、「起きたことはすべていいこと」という選択の結果を怖れない決意とともに語られる。
読者が一番ひっかかるのは「起きたことはすべていいこと」の部分のようだ。ほんとうに受け入れがたい経験をしてしまった人は、それをいいこととは思えないでしょう、あるいは本来すべき反省をしない単なる現実肯定なのではないかという指摘。でも筆者は、何か選択をおこなった後に不回避的な後悔の念をすこしでも低減するための方便としてこういう言い方をしている、すべては決まっているからしかたないという論理で。だから怖れることなくどんどん選択をしていこうという啓発の言葉なのだ。
一方、ぼくにはやはりそれは強者の言葉なのではないかと思えるところがあって、ある人々にとっては、逆に選択肢が縮減しているようにみえて運命論が呪縛としてしか感じられないということが別の困難としてあるんじゃないかと思える。
個人的にいちばんおもしろかったのは、三日目のA面。本谷有希子の演劇作品『ファイルファンタジックスーパーノーフラット』をジジェクとからめて、「現実」と「妄想」の間の、お互いの存在なしにはどちらも存在不可能で互いの存在を要請していくという相互依存的な関係を論じていて、とても説得力を感じた。上の段落とからめていうとこの円環こそが運命と感じられて、そこから抜け出せないような感覚があるような気がしている。このあたりは、自分でも考えてみたい。
さて、一番最初に書いた誰のための啓発かわからないということに対していうと、これはやはり著者の佐々木敦さん自身、それもそれぞれのヴァージョンの可能世界に存在する多様な人格をもったすべての佐々木敦さんに向けての啓発書なのかもしれない。
と全然まとまらないが、一応感想を書いてみた。
★★