森山徹『ダンゴムシに心はあるのか 〜新しい心の科学』

ダンゴムシに心はあるのか (PHPサイエンス・ワールド新書)

のそのそした動きと危機を察知すると丸くなってしまう臆病さが他人と思えなくて、ダンゴムシは(どこが肩かわからないが)つい肩を持ちたくなる存在だ。そのダンゴムシに心があると聞いては、読まずにいられない。オカルトでもトンデモでもなく、自然科学の立場から書かれた本だ。

自然科学なので、まず「心」というあいまいで主観的な用語を客観的に扱えるように定義しなくてはいけない。筆者は、「隠れた活動部位」すなわち「活動はしているものの、伴われる行動の発現を(意識的、および無意識的に)抑制している部位」を「心」と定義している。これだとものすごくわかりにくいが、筆者は、そのときの状況に応じていくつかの行動が発現可能なようになっていて、その中でもっとも優先度の高いもののみが発現するような行動のモデルを考えている。このとき行動を抑制して発現させない働きのことを「心」と呼んでいるわけだ。

行動として発現しないものをどうやって観測するかというと、個体にとって「未知の状況」を作り出して、「予想外の行動」が発現するように仕向けて、それが観察できれば、すなわちそれは「心」の存在を示すことだ、と筆者は考える。

「心」の定義とその検出方法の妥当性については疑問に感じることがいくつかあるが、これは要はダンゴムシの行動になんらかの自律性を見いだそうとする試みで、見いだされた自律性を「心」と呼ぶかどうかという問題だ。

まあ人間だって、他人の「心」の存在は間接的に知るしかないわけだ。人間の「心」とはまったくかけ離れたものであることを前提に、この自律性を「心」と名付けてみるのは少なくともおもしろいことだとは思う。筆者は石に「心」が存在する可能性にも言及していて、こうして客観的にとらえた「心」はスピノザがいうところの思惟属性の正体なんじゃないかと、妄想は広がる。

まあ、そういう疑問や議論はおいておいて、単純にダンゴムシを相手にしたさまざまな実験について読んでいるだけでもおもしろい。ダンゴムシを迷路に閉じ込めると、交替制転向という右左右左……と交互に曲がるという行動パターンが発現して、単純な迷路だと脱出できたりするのだが、ここでは、わざと何度も連続して行き止まりにぶつかるように動的に迷路を構成してやる。何十回も繰り返すと迷路の壁をのぼりはじめる個体があらわれた。次に円形のアリーナのまわりを細い水路で囲み、中にダンゴムシを置く。するとしばらく縁に沿って動いた後に水路を泳いで向こう岸にいくとする個体があらわれたそうだ。