原武史『滝山コミューン一九七四』

<img src=“http://i2.wp.com/ecx.images-amazon.com/images/I/41oJUMLQNSL._SL160_.jpg?w=660" alt=“滝山コミューン一九七四 (講談社文庫)” class=“alignleft” style=“float: left; margin: 0 20px 20px 0;”” data-recalc-dims=“1” />

思い返せば、小中学校では理不尽で窮屈なことが多かった。だが、毎朝学校に行くのがいやでたまらなかったこと以外、細かいことはもうあまり覚えていない。

本書の中で、筆者は、30年以上前(1970年代前半)の小学校時代の集団主義教育のトラウマ的な記憶に正面から向き合い、それが何だったのかを検証しようとしている。自分の記憶や日記の記述、クラスメートやその父母そして教師のインタビューにより、それが全国生活指導研究協議会という組織の唱える「学級集団づくり」という活動に由来していたという事実にたどりつく。それは社会主義的なバックボーンをもつ活動だった。それで筆者はその学校があった町と団地の名前をとって、その集団教育の結果としての地域共同体を「滝山コミューン」と名づける。

確かに筆者が経験した「学級集団づくり」には極端なところがあったが、似たようなことは日本全国どこでもあったのではないだろうか。筆者より若干下の世代で横浜育ちのぼくもここまでではないが同じような集団主義の洗礼を受けている。思想の左右を問わず、日本では集団主義は受け入れられやすいのだ(それは日本人が集団で何かをするのが苦手で仕方がないことの裏返しだと思っている)。筆者は精神的に早熟で独立心が強かったので、ほかの児童より敏感に窮屈さを感じてしまったような気がする。実際、しばらくぶりに会った同級生はほとんど彼と話が通じなかった。だから、本書は「滝山コミューン」という局所的で一時的な現象の記録でもあるけれど、もっと普遍的な集団主義教育への警鐘として読まれるべき本だと思う。

あと、少年期独特の鋭敏な感受性、鉄道などの趣味への目覚め、異性へのあこがれなど、一種の成長物語とも読めるし、滝山団地という西武線沿線の巨大団地の地誌としても読めて、どちらの面からもとても興味深く読めた。

筆者の自分の感傷を絶対化しない公平なスタンスにも好感が持てた。