ポール・オースター(柴田元幸訳)『オラクル・ナイト』
「私は長いあいだ病気だった。退院の日が来ると、歩くのもやっとで、自分が何者ということになっているかもろくに思い出せなかった。頑張ってください、三、四ヶ月努力すればすっかり元気になりますから、と医者は言った。私はその言葉を信じなかったが、とにかく忠告には従うことにした。一度は医者たちにも匙を投げられた私だ。彼らの予測を裏切って、不可解にも死にそこなったのだから、未来の生活が待っていることにして生きるしかないじゃないか?」
という最初の段落からいきなり引き込まれてしまった。病院から退院したばかりの主人公シドニー・オアは新進の小説家。退院後4ヶ月が経過した1982年9月18日から10月1日の間にシドニーの身の回りで起きた、一連の悲喜劇が、緊張感あふれる文章でつづられる。
シドニーは不思議な魅力を持つ青いポルトガル製のノートを手に入れ、久しぶりに小説を書こうとする。その内容がこの物語に大きな意味を投げかけてくるのだ。高層アパートの装飾が目の前に落下して死にかけた男が今までの自分の人生を放り出し、知らない町にいって別の人生をいきようとする、という、ハメット『マルタの鷹』の中のエピソードに触発されたストーリー。いわば、世界を支配する偶然という神の姿を目の当たりにしてしまった男の物語。そして、この物語の中にさらにもうひとつ別の小説が登場する、1920年代に高名な女性作家によって書かれたという設定で、盲目のかわりに未来をみる力を与えられた男を主人公にした、その小説のタイトルが『オラクル・ナイト』。それが本書のタイトルになっているという手の込みよう……。そしてときおりつけられる長い注釈が逆方向の物語の外部にいざなう。
これまでのオースターの長編小説みたいにひとつの大きな渦の中にのみこまれていく感じじゃなく、いくつもの小さな渦がいくつかに層にわかれて底の方でつながりあっているような感じだ。ひとつひとつの渦、エピソードがとても魅力的だった。
青いノートの物語は未完で終わってしまうんだけど、すごく魅力的な物語(ひょっとすると本編以上に)で、続きが読みたくなってしまった。