ウィリアム・フォークナー(加島祥造訳)『野生の棕櫚』
読もうとしたきっかけは1月にみた映画《Perfect Days》で主人公平山が読んでいたからだが、廃刊になっていた本書が再版されたのも映画きっかけだったようだ。訳が生硬くて古いのが難点だが現在気軽に入手できる飜訳はほかになさそうだ。
二つのまったく異なる物語が交互に語られる。ふつうはどこかでそれらは交錯したり統合されたりするものだけどこの作品ではまったく交わらないまま終わる。
ひとつは『野生の棕櫚』という物語(全体のタイトルがこれと同一なのは出版社によるもので、フォークナーは『エルサレムよ、もし我なんじをわすれなば』というタイトルをつけようとしていた)で。二児を育てる家庭の主婦だったシャーロットと医師のインターンだったウィルバーンの恋の逃避行を描いている。二人はどこまでその純粋性を維持できるかという実験をしているかのようで、最初シャーロットに引きずられているようにみえたウィルバーンも積極的にその実験に加わるようなり、安定して安楽な生活をあえてさけ苛酷な境遇に身をおこうとする。そして最後には当然悲劇が待っている。この悲劇があってこそ実験は成功するのだ。それを記憶に残すために、すべてを失ってひとり残されたウィルバーンは、「そうだとも、と彼は思った、悲しみと虚無しかないのだとしたら、ぼくは悲しみのほうを取ろう」と、死ではなく生きることを選択するのだ。
もうひとつの『オールドマン』は対照的だ。洪水からの住民の救助に借り出された名前のない囚人が、臨月の妊婦(放浪中に無事出産する)を救出しつつ、再び刑務所に戻るため、ミシシッピ川(オールドマンと呼ばれる)流域をさまよい帰り着くまでの冒険物語だ。ある意味英雄的な行為だが、それはまったく評価されず、愚直すぎると笑い話にされ。州政府の都合でかえって十年の刑期が追加されてしまう。囚人自身もそれを諾々と受け入れる。彼は連れ合いになった女性と赤ん坊にまったく愛情めいたものを抱かず無事どこかに送り届けるという責務を感じているだけだ。最後も「女なんてみんな・・・・・・くらえさ!」とミソジニー的な呪詛をつぶやく。
ウィルバーンと囚人はまさに対照的だ。SNSのホモソーシャルな空間では圧倒的に囚人が支持されそうだ。囚人自身もそういうホモソーシャルな空間が恋しくて刑務所に戻ろうとした節がある。フォークナーはメインストーリーの『野生の棕櫚』の対極の戯画として『オールドマン』を描いた気がするが、現代においてはむしろ『オールドマン』の方がリアルで共感を集められるのではないだろうか。
『野生の棕櫚』と『オールドマン』に共通するのは生殖への嫌悪だ。シャーロットは堕胎を強く望み、そのために命を落とす。囚人は最初に感じた妊婦への違和感を最後まで拭い去ることができない。このあたりは現代の世界的な少子化を予言しているともいえる。
さて、平山はこの作品を読んで何を感じたのだろうか。平山に近いのは囚人の方だ。どちらもルーチン化され規律的な生活を送ろうとしている。ある意味平山は囚人と看守のひとり二役をやっているともいえなくもない。他方、ウィルボーンの生き方は自分が選ばなかったもの(あるいは選べなかったもの)として心を揺さぶったのではないだろうか。ウィルボーンに最後に残った「記憶」のかわりに平山はいまここに生きている。この作品の登場は平山の生き方を際立たせる効果があったということがわかった。