吉川浩満『哲学の門前』
同じ著者の『理不尽な進化』も、あえて進化に関する誤解に焦点をあてていて相当ニッチだったが、これまたニッチな本だ。哲学の入門書ならぬ「門前書」ということで、著者の体験談のパート(である調)とそれに関する「哲学的」(?)な考察のパート(ですます調)が交互にくるスタイルをとっている。
特異な体験が描かれているわけではないが、いやおうなしに向き合わされる自己や人生の局面の中から、著者の半生がくっきりと浮かび上がってきて、引き込まれた。
大学の卒業旅行のときニューヨークで出会ったタクシー運転手、故郷鳥取の卓球部のチームメートである寡黙なM、北朝鮮への帰国運動に参加して後悔しながら若くして亡くなった伯父、著者がメンバーだったフェミニズムの読書会での悩ましい葛藤、ここまでが前半。
「幕間」として「君と世界との戦いでは、世界を応援せよ。」というフランツ・カフカの謎めいた言葉と「きみが悪から善を作るべきだ。それ以外に方法がないのだから」というロバート・P・ウォーレンの言葉に関する考察がはさまる。
後半。日記から抜粋で著者の執筆当時のあわただしい「複業」の様子、大学卒業後勤めた国書刊行会からヤフーなどのこれまでの職業履歴、著者の執筆とYouTube活動のパートナーである山本貴光氏とのかかわり、逆に山本貴光氏からみた著者の話が語られ、最後はまたカフカの『掟の門』を題材にした考察のみの章で締めくくられる。
ずっと著者たちのYouTubeチャネル「哲学の劇場」をみてきたし、著作もいくつか読んだので、勝手に親近感を感じていたが、そうなると来歴が知りたくなるものだ。そういうニーズをまさに充たしてくれる本だった。
考察パートでは「コミ障に関する小話」がとくにおもしろかった。「コミ障」というキーワードに注目が集まるのが特に4月であるところに注目して、「コミ障」に欠如しているものであるところの「コミ力」はコミュニケーション能力ではなく、「組織集団に適応する能力、言い換えれば場のノリに同調したり場のノリを支配したりする能力」ではないかと推察しつつ、しかし「コミ商」という言葉には「あらかじめコミュニケーションの不如意を申告するというかたちで互いのコミュニケーションへの期待値を下げておき、安全確実な土台から関係を構築していく」効果もあり、これこそが哲学が目標とする新しい概念の創造ではないかと考察を広げる。なかなか読み応えのあるパートだった。