中井英夫『虚無への供物』
日本探偵小説史上の三大奇書の一角を占める作品なので当然昔読んでいて忘れているだけだろうと思っていたが、読み進めてみても一行も記憶に引っかかる部分がないこと以上に、この作品を読んで忘れるはずがない。つまり、まさかの初読だった。
舞台は1954年(昭和29年)暮れから翌1955年夏にかけての東京。宝石商でも財をなした氷沼家の一族に降りかかる悲劇を未然に防ごうと素人探偵たちが勝手気ままな推理を繰り広げるが、現実がその推理をなぞる形になり、次々に家族や関係者が死んでいく。さまざまな色のバラの品種、五色不動、シャンソンの歌詞。思ってもいなかった補助線が無関係と思われた人物や出来事の間に結ばれていく。伏線が線ではなく面になっているのだ。
虚構感が強い作品だけど、「愚昧と怠慢の記念碑」としての無意味な死に耐えられず「悲劇を完成」させるというのは、まだ戦争が終わってから十年、本書にもでてくる洞爺丸事故など無意味に大量の人が死んでいく時代背景を考えると、けっこうリアルで強度のある動機だ。人は無意味な死には耐えられず、自ら意味をつけたそうとしてしまう。
この時代の文化状況を語る資料としても読めていろいろ興味深い。ゲイバー、シャンソンのレコード、ラジオ。むしろ現代より活気があったかもしれない。
いままで読んだ中にこういう作品はなかった気がする。年始早々特別な読書体験だった。
★★★