アンドレ・ブルトン(巌谷國士訳)『ナジャ』
捨てられそうになっていたところを救い出し、せっかくなので読んでみた。シュールレアリスムの旗手アンドレ・ブルトンの小説?
タイトルの「ナジャ」という女性はなかなか登場しない。冒頭は「私とは誰か?」という問いから始まって、延々とどこに向かうかわからない感じで、出会った人々やみた物事やイベントが論われる(その中で『気のふれた女たち』という劇の紹介は劇中劇みたいで興味をひかれた)。ページ数で56ページにしてようやくナジャは登場する。ブルトンは道で奇妙な化粧とみすぼらしい服装をした若い女を見かけ声をかけ、それがナジャだったのだ。
ナジャは麻薬の運び人をして捕まったり、娼婦的なことをして身を立てたりする人間だが、洞察力が鋭くシュールレアリスムの本質を理解したような言葉を発したり、絵を描いたりする。ブルトンとナジャの蜜月と言ってもいいような交流は数ヶ月間続いたが、やがてナジャの精神の不安定さもあって遠ざかり、ついには彼女の精神病院への入院でナジャはこの物語そして歴史から姿を消す(そういうものが存在したのかどうかはわからないが二人の関係の破綻については特段描かれてない)。
そのあとも本書はトーンを変えて続く。「君」という二人称で呼びかける人物が登場して、当初ナジャだと思うが、全然関係ない女性なのだった。このパートに書いてあることは抽象的で、読み終えた直後でもモンティパイソンにありそうなドゥルイ氏のホテルのエピソード以外覚えてなかった。最後は「美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう」という言葉でおわる。
一読した印象はブルトンが、狂気との淵に立って自らシュールレアリスムを体現し、ついには境界を越境してしまったナジャに対してブルトンは引け目とか罪悪感のようなものを感じていて、それでこういう持ってまわったような自分を韜晦するような作品を書いたんじゃないかということだった。その印象が間違いだいうことはわかったけど、それじゃなんなのかという答えはぼくのなかで出ていない。
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