テッド・チャン(浅倉久志他訳)『あなたの人生の物語』

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

ようやく新作の飜訳が出るというので、復習という意味でなんと15年ぶりの再読。思った以上に忘れていた。

せっかくなので一編ずつコメントをつけておこう。

『バビロンの塔』。本書の半分くらいがそうだが、この世界とは異なる物理法則・トポロジーの世界の物語。これは円盤状の地上と天動説。巨大都市バビロンの人々は文字通り空まで届く塔を打ち立てる。空の岩盤にぶちあたった彼らは掘削してさらに先を目指す。

『理解』。 事故で脳神経を損傷して植物状態になった男が実験的な両方で逆に常人の何倍もの知的能力を得る。という話はよくあるが、一人称で強化された知性を描写しているのが特徴的。自分自身を理解、統御可能なメタなものとして描写されている。

『ゼロで割る』。数学の体系に根本的な矛盾があることを証明してしまった数学者が心を壊す。数学上の矛盾と、彼女の夫の心の中の矛盾がパラレルに語られていく。

『あなたの人生の物語』。表題作。タイトルからは想像できないが異星人とのコンタクトもの。人間を含む地球上の動物のように時間を追って感覚、思考するのではなく、超時間的に感じ、思考する存在と遭遇する。不完全ながらその思考法をマスターした言語学者が自分が産むことになる娘の生涯を「回想」する。

『七十二文字』。ストーリー的には一番動きのある話で、このまま長編になりそうだ。命名字という文字の力で機械や人形を動かすことのできる世界。人類の種としての寿命が尽きようとしているという事実が明らかになり、ストラットンたち命名師は極秘裏に寿命をのばすためのプロジェクトに参加する。

『人類科学の進化』。科学雑誌の記事の体裁をとった掌編。遺伝子操作で誕生した超人類と人類が共存する環境で、理解不可能な超人類たちの科学と別に人類のための科学を研究する意義を考察している。機械学習全盛の今読むとリアルさを感じる話でもある。

『地獄とは神の不在である』。収録作の中で一番の傑作。天使が自然現象のように出現し奇跡や災厄をもたらす世界が舞台。信仰とは何かと問題が究極的に考察されている。ここにでてくる神が不在の地獄とは、ほぼこの世界だ。ただそこに永遠性が付け加えられている。

最後は『顔の美醜について』。現代の技術と地続きの作品。顔の美醜を感じなくなる装置をつけることの是非について多面的に考察されている。

こうして読み返してみて、テッド・チャンは小説家というより哲学者のような気がしてきた。その思索の結果を表現するにあたって小説、それもSF小説という媒体が選択されているだけだ。その思索はヒューマニズムをひょいっと越えている。彼の作品に一種の厳しさを感じるのはたぶんそのせいだ。

寡作だとしては知っていたけどまさかまさかこれだけかかるとは。新作の短編集を読むのが楽しみだ。

★★★