マーガレット・アトウッド(斎藤英治訳)『侍女の物語』
今やディストピア小説の古典のひとつといっていい作品。ディストピアマニアとしては読んでおかなくてはいけない。
「侍女」という言葉の重々しさから、読む前は今の文明と隔絶した遙か未来か過去、あるいは別の惑星の物語のような気がしていたが、なんと原書が出版された1985年からみると近未来、今はもう過去の2000年前後の時代設定だった。舞台はアメリカ。極端な不妊、少子化を背景に、極右勢力が大統領を暗殺してクーデターを起こし、人種差別、女性差別的な身分制社会を作りあげる。トランプ政権が誕生した今からみると予言的なものを感じてしまう。同じディストピア小説の中で『1984』と比べても圧倒的なリアルな状況設定だ。
主人公の女性オヴフレッドは夫と娘と引き離され再教育を受け「侍女」という身分にされる。「侍女」とは支配層の家庭に派遣され高齢などのため出産能力のない妻に代わり夫の子供を産むための身分だ。オヴフレッドという名はその家庭の夫の名前フレッド(彼は司令官という特権的な身分だ)にちなんで与えられたもので、元の名前は奪われている。本書の中でも明かされることはない。
この世界の全体主義、封建主義は徹底している。「侍女」に限らず女性は基本的には個人としての仕事と財産を奪われ男性に従属する立場となっている(ただし「妻」という身分には家内の実質的な権限が与えられている)。理由のない外出は禁じられ、町のあちこちに検問所が設けられている。身分ごとに決められた色、形状の衣服を着なければならない。女性は文字を読むことも罪とみなされている。何か問題を起こしたり自分の身分の職能を全うできなくなれば、救済の儀という儀式で公開処刑されるか、コロニーという汚染され窮乏した地域に放り込まれる。
オヴフレッドは内向的で慎重な性格ということもあって、身の回りの細かな出来事の描写が主体で、そこに回想と内省が大きく被さってくる(だからこの政治体制の全体像はよくわからない)。この動きのなさが嵐の前の静けさ的な不安感を増長して読んでいてつらかった。
アトウッドはもともと詩人としてスタートしたこともあって比喩にとんだ言葉の使い方がすばらしい。たとえば以下のパラグラフ。
私の体には、何か死んだような見捨てられた感じがある。まるでわたしは、かつては様々なことが起こったのに、今は何も起こらない部屋のようだ。窓の外で繁る雑草の花粉だけが風に吹かれて入ってきて、床の上に埃のように積もっていく、部屋のようだ。
司令官フレッドはどうやら新政権樹立の黒幕のひとりらしいが、紳士的でシャイなところがありなかなか憎めない人間なのだ。彼のもつ二面性が物語のトーンに変化を与えている。スクリブルをやろうと誘うシーンはほとんど感動的ですらある。
オープンエンディング的な本編のラストが好きだ。そこではじめて爽快感のようなものを感じた。