筒井康隆『おれに関する噂』
多分筒井康隆で最初に読んだ本だったのではないか。ちょうど子供の本から大人の本に移り変わるあたりのことだ。それを何十年ぶりかに電子書籍で再読。
筒井康隆の代表作に数えられる、表題作『おれに関する噂』、『熊の木本線』の物語の骨格は覚えていたがそれ以外の作品はほとんど忘れていた。あらためて読むと傑作ぞろいの珠玉の短編集だった。落語みたいなオチが素晴らしい『怪奇たたみ男』、エロチックな夢の中の浮遊感が心地いい『だばだば杉』、日常と悪夢の間のすれすれの旅を描いた『講演旅行』、これからの日本人と戦争の関わり方を予見した問題作『通いの軍隊』、そして最後の段落の飛躍ぶりに胸躍る『心臓に悪い』。
ここでは若干地味目の『幸福の限界』と『YAH!』を取り上げたい。両方とも30歳前後のサラリーマンが主人公。妻は専業主婦だ。前者は豊かで何不自由ない生活の中から染みのように広がる滅びへの渇望が描かれ、後者では突然あらわれた神出鬼没の家計コンサルタントの指導でマイホーム貯金をするために窮乏する。どちらにも執筆時期の1970年代半ばの空気がとてもよく描かれている。何せ、月給が手取りで32万円、アパート住人の平均貯金額が1000万円など今では考えられない数字が並ぶ。そんなに豊かでもマイホームを持つのはとても難しいし、終身雇用なので会社に逆らうことはできない(ある意味今よりブラックだ)。
この時代の空気感を多少知っているけど、豊かではあったけどなんとも言えない窮屈さがあった。シリアスとコミカルバージョンでそれぞれその空気がうまく描き出された2作品だった。今から思うと別の宇宙の話みたいで、まさにSFだ。
ところで、『熊の木本線』の忌歌が歌われてしまったせいで今日本はこんなことになっているのではなかろうかと時折思ったりする。