永井荷風『すみだ川・新橋夜話』
永井荷風は、独りで東京を歩き回った、いわばぼくの先達みたいな人なのだけど、山の手に生まれ下町にあこがれてさらにその先の場末に足を伸ばした荷風に対して、場末で生まれたぼくは山の手にあこがれてさらにその先の郊外を目指しているので、まるで方向が逆だし、荷風が愛した花柳界の風俗なんて封建時代の遺物としか思えなくて、なぜ荷風がそこまで愛すことができたのか不思議だった。
そういう違和感が無意識的にはたらいて、この本は長らく積ん読状態になっていたわけだが、ジュラ紀くらいの地層からたまたま発掘して、何の気なしに読んでみたら、その華麗な文体の力もあって、たちまちその世界に魅せられた。もちろん、ぼくも芸者遊びをしてみたいと思ったわけではなく、荷風の美学が理解できたような気がするということだ。最初思っていたように、当時(明治末期)の日本社会の抑圧、封建制に対する反発(どうせ発禁をくらうので政治風刺的なことはあえて描かず江戸趣味に走るのだ、ということを自身書いたりもしているし、その江戸趣味的なものですら公序良俗に反するということで虫食い状態にさせられた)が、ある意味それ以上に封建的な江戸趣味に向かわせた、毒を食らわば皿までという面もあるのだけど、芸者という存在にはほかにはない美学がある。
基本的に芸を売りながら、ある関係性が成立すると、男女の関係になったりするわけで、そこにいたる駆け引きや騙し騙されの手管があったりして、当時ほかでありえなかったけっこう自由な恋愛市場とでもいうべきものがそこにあったのではないだろうか。もちろん、それは芸者として生きざるを得ない女性の悲哀があり、そこには搾取と抑圧の構造があったのだけど、それだけになおさら彼女たちの存在が輝いて見えるのだ。またそこには金銭を媒介することで生まれる不思議な秩序のようなものがあった気がする。
恋愛市場が全面的に広がった現在、まあある意味、女性が全部芸者化したというか、それを通り越して、男性も芸者化しているといってもよさそうだけど、そこには少なくとも表面的には抑圧といえるようなものはなくて、それでみんな幸せになったかというとそうともいえないというか、やはり抑圧があるが故の美というものはあって、それは失われているとは思う。
決して、荷風の時代の不自由さがよかったとはこれっぽちも思わないし、現代に生きる自由を目一杯享受させてもらっている口ではあるけれど、こうした隠微な美ということに限らず、抑圧なしに育ってしまうと、抑圧されている人々への共感を感じることができなくなってしまうのではないかと(そしてドンキホーテが水車に突撃したみたいに彼らを敵だと思い込んで攻撃してしまうのではないかと)思ったりもする。抑圧はいつでもどこでもあるものなのだから。自由そのものからだって抑圧は生まれるのだ。