H.D.ソロー(飯田実訳)『市民の反抗 - 他五編』

市民の反抗―他五篇 (岩波文庫)

森の生活(ウォールデン)』で名高いソローのエッセイを6編集めた作品集。

概念的に難しいことが書いてあるわけじゃないんだけど、古典の知識を駆使したレトリックがくせ者で、ソローの文章はついてゆくのに苦労する。話題と話題の間を一足飛びに駆け抜けたり、いつまでも同じところをぐるぐるまわっていたりして、今いったい何について語っているのか、わからなくなってしまうのだ。町中を歩いている時みたいに、散漫に土地勘を頼りに歩いていたのではだめで、彼の後を見失わずついてゆくためには、森の中を歩いているときのような研ぎ澄まされた注意力を必要とする。

表題作は、政府が間違ったことをしているときに、市民はどうするべきかというテーマ。その昔、ぼくは何が正しくて何が間違っているかは相対的なことなので、行動の規範としてはとりあえず法律に従うといっておくのがいいんじゃないかと思っていた。だけど、ここ数年いろいろ本を読んだりする中で、そういう立場の卑屈さがありありとわかってきたのだった。何が正しくて何がまちがっているか自分で判断できなくてどうするんだよ、と昔の自分をしかってやりたい。

ソローは、奴隷制度を認め、侵略的なメキシコ戦争をおこなっている政府に対し、税金を納めないということで反抗し、(一日だけだが)刑務所に収監された。昔のぼくなら、そんなことはやめて、選挙で政権をかえるとか、合法的な手段をとったほうがいいんじゃないか、とかブーブーいっていたと思う。

ソローは選挙という手段に対し、「あらゆる投票は、将棋や双六とおなじように一種の勝負事であり、ただわずかに道徳的色彩が加味されているだけである」といい、「正義のために投票したからといって、正義のためになにかしたことにはならないのである。それはただ、ひとに向かって、正義が勝利しますようにとの願望を弱々しく表明してみせたにすぎない。賢者は正義を偶然の支配にまかせたり、多数者の力によって正義が勝つことを願ったりはしないものだ」と切り捨て、まずは不正なことをしている政府に対する支援(つまり納税)をやめることをすすめている。単なる自己満足ではなく、それで、良心的囚人となることにより、政府の不道徳さを告発しようとしていたのだ。

このような、個人の良心が政府への服従の義務に優先するといった考えは、個人的には大賛成だが、日本の現代社会だとあまりリアリティーを感じられないのが、とてもさみしい。だいたい、ソローの思想はどちらかといえば右翼的な考え方なのに、日本では確実に左翼として受け取られてしまう。ここには、なんか妙なねじれがあって、本来対立すべき軸で対立できていないもどかしさが常につきまとうのだ。

『原則のない生活』というソロー晩年(といっても今のぼくとそれほど変わらないのだが)のエッセイは、人生の中の優先順位の異議申し立てをしている。金儲けや時事ネタを消費するよりもっと自分の内面に向き合えと説教しているんだけど、ちっとも積極くさくない。いくつか印象的な箇所を引用。

「われわれが自慢しているのは、奴隷になるための自由であろうか、それとも自由になるための自由であろうか?」

「作法というものが、いつだって気骨のある人間から見捨てられているのは、取りも直さずそれが欠陥をもっているからであって、すぐれているからではない。それは本来、生きている生物が勝ち得ていた尊敬を自らに対しても要求する、脱ぎ捨てられた衣類か殻のようなものである。」

「要するに、風の凪いでいるところに雪の吹き溜まりができるように、真理の風が凪いでいるところに制度が出現するのである。ところが真理の風は、あいかわらずその制度の上を吹きまくっており、最後には、それを吹き倒してしまうのだ。」

最後のなんか、村上春樹のエルサレム講演の壁と卵の話のとてもよく呼応しているような気がする。ソローは生涯を通じてまさに卵の側に立ち続けた人間だった。