舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』(上・下)

ディスコ探偵水曜日 上 (1)ディスコ探偵水曜日 下 (2)

アメリカから日本にやってきた迷子探し専門の探偵ディスコ・ウェンズデイは事件の当事者だった6歳の梢と二人で暮らしている。そんな梢の身に不思議な出来事が起きる。突然身体が成長し、11年後からやってきたと自称する未来の梢がその口を借りて話し始める。行方不明の現在の梢の魂を探してディスコはパインハウスと呼ばれる不思議な館を訪れる。そこではそこでは推理作家暗病院終了の謎の死をめぐって何人もの名探偵が推理合戦を繰り広げており、披露した推理が間違っていたと分かった探偵は、片目に箸をつきさして次々と死んでいた。

冒頭の文章が超絶的にリズミカルで、パインハウスにたどり着くまでは、血湧き肉躍る冒険小説という感じで引き込まれるんだけど、ついたとたん延々と観念的なゲームがはじまってしまう。めまぐるしい速度で謎が現れ、いったん解明されたかと思えば、次の瞬間には覆されるという繰り返しに、だんだん退屈してきて、荒唐無稽文化財にしたくなるんだけど、それを通して、この小説の中の世界=時空の構造が明らかになる(このあたり哲学小説といってもいいかもしれない)。簡単にいってしまうと、それは意識が空間や時間を構成してゆくという超観念論的な世界。たぶん、そこでは水にきれいな言葉をなげかけるといい形の結晶ができたりするんだろう。

この世界のあり方に、読んでいて違和感を感じてしまった。整合性とか物語の展開とかよりもたぶん、一番大きいのは「無垢」ということに対する評価の違いだ。舞城王太郎にとって「無垢」という属性はとても価値が高いもので、グロテスクでヴァイオレントな描写をこれでもかという感じでたたみかけるのも、「無垢」を際だたせるためなんじゃないかと思う。ぼくは逆に「無垢」は人を滅ぼすと思っているし、滅びるのはとても悪いことだと思っている。ぼくは舞城王太郎の作品は好きだけど、根本的に相容れないものがあるのかもしれない。

とはいうものの、ラストはすばらしい。上下巻あわせて1073ページを読み通してよかったと思わせてくれるエンディングだった。ある意味大団円、ただし、その右端がちょっと欠けている。