ポール・オースター(柴田元幸訳)『ガラスの街』
「あてもなくさまようことによって、すべての場所は等価になり、自分がどこにいるかはもはや問題でなくなった。散歩がうまく行ったときには、自分がどこにもいないと感じることができた。そして結局のところ、彼が物事から望んだのはそれだけだった――どこにもいないこと。ニューヨークは彼が自分の周りに築き上げたどこにでもない場所であり、自分がもうそこを二度とそこを去る気がないことを彼は実感した」の「ニューヨーク」を「東京」におきかえると、ぼくのことかと思ってしまったが、「歩くこと」がこの小説のテーマの一つだ。
散歩好きの孤独なミステリー作家ダニエル・クインのもとに間違い電話がかかってくる。私立探偵の「ポール・オースター」に依頼をしたいというのだ。一度は間違いだといって電話を切った彼だが、三度目のその電話に対し、自分がポール・オースターだといってしまう。彼は、風変わりな依頼人から、父親である老人から身を守ってほしいと依頼される。老人は来る日も来る日もただニューヨークを歩き回り、クインはそのあとを尾行する。その無意味さに彼は徒労感を覚えるが、ある日老人のたどったコースに妙な規則性があることに気がつく……。もうすでにクインの転落ははじまっていた。
再読。前回は角川文庫版の『シティ・オヴ・グラス』と題された訳を読んだのだが、ポール・オースターが日本で名を知られる前に、風変わりなミステリー作品として紹介されたものなので、訳者の人たちが後書きでしきりに恐縮していたのを覚えている。今回読んだのは、ポール・オースターの訳ならこの人という柴田元幸訳。coyoteという雑誌に収録されていたのだ。一応長編の部類に入る小説が、雑誌にほんの片隅にすっぽり収まってしまうということに驚いた。ほんとうに重くて大きな雑誌で、読むのに苦労したが。挿絵のように挿入されている木原千佳が撮ったニューヨークの写真がすばらしい。
一度目は、クインに感情移入していたこともあって、あまりに謎めいて宙ぶらりんのエンディングに納得できないところがあったが、今回読んで、やっぱりすごい小説だということに気がついた。
表面的なストーリーの裏を読むと、彼の名前ダニエル・クインはドン・キホーテと同じイニシャルだ。クインがオースターと会ったときに、ドン・キホーテ自身が、同胞たる人間たちの信じやすさを試すために、狂気を演じて、物語として記録させた、という説を披露されるが、これはたぶん同じイニシャルのクインのことも示唆していて、実はこの物語全体がクインのしくんだものではないかという疑念を抱かせる。エンディングに唐突に姿を現す物語の語り手が示す、わざとらしいクインへの同情も、語り手=クインということをにおわせている。被害者のようでいて、実はクインは相当にしたたかなやつとみた。