東浩紀・北田暁大『東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム』
日々東京を歩き回っているぼくにとって、東京の街について語られる言葉は他人事としてはきけなくて、まるで「家族」の話をされているような微妙な感情をいだいてしまう。
東浩紀と北田暁大という、共に1971年生まれであり、東京近郊で生まれ育ち、東京に関心を持ち続けてきた二人の対論をまとめた本だ。対論のテーマは東京の街そのものではなく、東京の光景の背後にかいまみえる、生活、文化、思想などあらゆるものだ。
1章から4章までは東京(近郊)のさまざまな街における個人的な経験やメディアで語られた言葉から現状の東京の姿を描き出してゆく。
まず、企業、自治体が都市計画的に街のイメージを作り出してゆく「広告都市」とでも呼ばれる街がある。西武パルコの進出によって街の姿を大きく変えられた渋谷がそれにあたるだろう。しかし、今では渋谷はその文化的なプレゼンスを失っている。
次に、同じようなイメージ作りを郊外の住宅地に対して行った「広告郊外」と呼ばれる街がある。古くは田園調布、比較的新しいところでは青葉台などがそれにあたる。セキュリティに対する仮想的な不安感が高まっている現在では、通学路を監視するボランティアや監視カメラが街角に設置されるゲイティドタウン的な色彩が濃くなっている。
そして、もうひとつが地方都市のロードサイド的な風景。歩く人の姿はなく、みな車を使って巨大なショッピングセンターにのりつける。本書では「ジャスコ的」、「ファスト風土的」、「国道16号的」とさまざまに呼ばれている。文化や歴史の蓄積のない便利さのみが支配原理の画一的な風景。いまや、東京の郊外にもこういう街が広がっている。現在でも。多かれ少なかれ、ほとんどの街がその影響を受けていて(恵比寿ガーデンプレースや六本木ヒルズの名前が挙げられている)、ゆくゆくは個性的な街というのは観光地や職能集団の街以外残らなくなるのではないかという、悲観的な見通しが語られる。
ここで、二人の考え方の間に微妙な差異が出てくる。二人とも、利便性やセキュリティが「人間工学」に基礎づけられて追求されてゆく中で、街が「国道16号的」になってゆくのはある程度避けられない、というところには同意しているのだけど、東さんはそれを既定事実としてとらえ、それを制御してゆく知恵やスキルを身につけることを提案している。それに対して、北田さんは「人間工学」も共同幻想である以上その枠組をゆるがせることが可能なのではないかと考えている。
5章は、東京から離れて、社会とかリベラリズムの話になるのだけど、二人の差異は増幅される。東さんは「あえて」といっていいと思うが、以下のように問題提起している。社会が継続するためには世代間の継承、生殖が必要になる。この生殖はリベラリズムを基礎づけている「個と社会」という枠組からはずれている。自分が親から生まれ、親はその親から生まれ、という事実性はどうしても脱構築できない。事実としての身体がナショナリズムを呼び起こす。それに対抗するには観念ではなく身体的な共感を呼び起こしてゆくしかないのではないかという。北田さんは総論として同意した上で、やはり観念の可能性に期待するようなことをごにょごにょいう。
なんだか、北田さんの方は可能性や権利に落ちてしまってリアリティがないように感じてしまうが、それは日本の社会という特殊事情があるのではないかと思った。一般的に社会は、言葉=論理と感情=共感という二つのレイヤーで結びついていると思うのだけど、日本は伝統的に前者が弱く、到達距離が短い。そのせいで、とりうる手段が限られてしまう気がする。
生殖に基づいた「血のナショナリズム」は強固だ。本書では、これから人々が「血のナショナリズム」に目覚めたらまずいというような書き方をされていたが、実は日本では脈々と力を保ってきたような気がする。
「共感」も「血」に対して強く働く。東さんがいうような共感ベースの社会はナショナリズムになっていくしかないと思う。たとえ不可能に思えても、言葉と論理をつむいでゆく北田さんの姿勢に期待したい。
街については、歩く人と車に乗る人の見方のちがいがあるのかもしれない、「国道16号的」風景は歩くものには「人間工学的」に耐え難い。下北沢再開発における立場の違いも歩行者と車の対立だ。ぼくも、残り少ない歩く側の人間として、声をあげていかなければと思う。