ドストエフスキー(原卓也訳)『カラマーゾフの兄弟』
いろんな人のお薦めの一冊にあがる本だけど、読みにくかったから読み通したことを自慢したいだけなのではないかという邪念をうんで、なかなか読もうという気になれなかったのだが、年末から読み継いできてちゃんと読み終えることができた。
別に難解でも退屈でもなく、エンターテインメントとしても十分楽しめる小説だった。ただ、その投げかけるメッセージは一筋縄でいかないというか多義的で、たとえばある部分に感動してこの小説を誰かに勧めたとして、その人は全然違う箇所で感動するかもしれない。だから、ほんとうは人に勧めにくい小説だと思う。
主に神と良心の問題がテーマなのは間違いない。検事イッポリートがいみじくも表現するように、高潔さと粗暴さをあわせもち、あるがままのロシアを体現する長兄ドミトリー、何物も信じずヨーロッパ的な知性を体現する次兄イワン、敬虔で謙虚で、民衆の原理に生きる末弟アリョーシャ。このカラマーゾフ家の三兄弟がある殺人事件にまきこまれ翻弄されるさまが徹底的にリアルに、そして比喩的に描かれている。
その比喩が語る神と良心の問題は、自分の良心を疑い、悩んだ経験がある人間しか、ほんとうにはわからない気がする。これまで犯罪をおかしたことがないことを根拠に自分を善人だと信じたり、醜い部分をあっさり肯定してちょい悪を気取るようなぼくたちには、想像することしかできない。
19世紀は結核が死の病だったことがあり、死がほんとうに身近だったのだ。その分、神もリアルで、信心深い人、無神論者問わずあらゆる心の隙間に入り込んでいた。そして、科学技術の発展や社会構造の変化は逆に神を否定する方向に人の心を誘導する。人は、肯定だけでも、否定だけでも、精神の並行を保っていられるが、同じ対象に肯定と否定を同時に抱くと、心が壊れてしまう(現代日本のメンヘル系の人は家族に愛と憎しみを同時に抱いていることが多いと思う。日本では家族が神の代わりなのだ。)この小説に心が壊れる人が多いのは、小説だからというわけではなく、ほんとうにこの時代、そういう人が多かったのだろう。神を肯定し同時に否定しなくてはいけなかったからだ。
ドストエフスキーは有名な「大審問官」の章で、この問題に対して答えた気がする。それは言葉じゃなくてある行為、キスなのだ。今ではかなり歪められてしまっているような気がするけど、キリスト教の本来の教えは、そこに凝縮されているような気がする。というより、それはキリスト教に限らずもっと普遍的なことなのかもしれない。キリスト教徒じゃなくても、キスはできるのだから。