稲葉振一郎『「資本」論―取引する身体/取引される身体』

市場経済とは何だろうか (ちくま新書)

リベラリズムとは、他者への寛容を旨として、市場経済のもとで所得の再分配を広く認める考え方だ。個人的にはほかに社会がうまくいくあり方はないだろうと思うのだが、一方には新保守主義(≒ネオリベラリズム)とよばれる市場原理主義的な考え方があり、他方には市場経済に代わるしくみを模索する共産主義的な考え方もある。リベラリズムは中庸ともいえるのだけど、なぜ再分配が認められるのかという問いに対して十分答えきれてないような気がしていた。

それに対してはホッブズやロック(そしてヒューム)が唱えた社会契約説が回答としてあげられるのだけど、伝統的な社会契約説は資産をもつ市民が対象で、何ら財産を持たない労働者階級(ぼく自身もここに属することになる)の人々は埒外におかれている。もちろん国民国家というものの形成によって、これらの人々も国家の内部に取り込まれたのだけど、論理的には国家に寄宿している形になり、実際「国家以外に貧しい庶民を守ってくれる者はない」わけで、過度に国家に依存することになり排他的なナショナリズムを生み出しやすい。また、逆に国家の側からみると、資産というものを仲介せず彼らの「剥き出しの生」と相対するので、守ってやる代わりに戦時には命を差し出せという要求が暗黙裏に可能になってしまう。

本書では、労働者の人々が「労働力=人的資本」という資産をもっていると位置づけたらどうかという、提案をしている。土地を所有している人がその所有の権利のうち幾分かを国家に譲り渡す代わりに国家がその所有権を護るという保障を得ているのと同様に、労働力=人的資本についても双方向の契約が成り立っているとみなすのだ。重度の障碍者についても、テクノロジーの発展に伴って、何らかの労働になる可能性があるとみなす。もちろん特殊な技能でもない限り、労働力=人的資本だけを頼りに国外に移住したりすることは不可能なので、国家に依存していることにかわりがないが、少なくとも国家と対等に向かい合うための論理的な基盤が確保できるのだ。

ちょっとまどろっこしいくらいの丁寧さで書かれているが、中身はかなり刺激的な本だ。エピローグの、ロボットやテクノロジーの力で改変された「ポストヒューマン」の話もおもしろい。