仲正昌樹『お金に「正しさ」はあるのか』
「正義」と呼ばれるものには二種類ある。ひとつは無限で垂直な正義で、こちらは神(に相当する権威)から与えられる。もうひとつが有限で水平な正義で、個々人間の利害を数値的に調整し、具体的には貨幣の移動という形で実現される。
貨幣経済の発達に伴い前者の正義の力が弱体化し、後者が強まってきた。これはすべての関係性を平準化したという点で好ましいことだったけど、単にものの価値を相対的にあらわす指標だったはずの貨幣は、もっとも魅力的な商品として人々の欲望を喚起し、すべてを貨幣的な価値で覆い尽くすグローバリズムが進行している。反面、貨幣のせいで失われた自然を取り戻そうとする動きもうまれるが、それも貨幣の力を借りざるざるを得ず、ファンタスマゴリーと呼ばれる奇妙で猥雑なものを生み出すだけで、結局失望につながる。学問や芸術もファンタスマゴリーに汚染されていて、どこにも逃げ道はない。共産主義や原理主義もまた貨幣の力が周辺部まで行き渡る中でその副産物としてうまれたものなのだ。
といった図式は前提条件として軽くふれられるだけで、本書は、こうした図式がいかに普遍的かということを、『ベニスの商人』、『ファウスト』、金原ひとみの諸作品、『ドラキュラ』、『海辺のカフカ』などの古今東西の文学作品から読み取っていくところがメインだ(『海辺のカフカ』はまだ読んでいないのにストーリーがだいたいわかってしまった)。こうした分析の中で、貨幣的な現実から逃れるということが途方もなく困難だということには説得力を感じられるが、あらたな知見を得るという目的には向いていないかもしれない。
最後は貨幣の力を前提としてその再配分を正当化するロールズの『正義論』に触れていて、この議論がどこまでプライヴェートとされる領域に適用できるかという問題提起だけされて終わっている。
本書の文章が卑屈だという突っ込みがどこかでされていたが、新書では本論の間に個人的な話題を挟み込むもので、その部分の芸風が小言っぽいということだと思う。エピローグには、執筆時に論争が巻き起こっていたというイラク人質事件(無事に解放された方)について触れられていたが、これもまた小言であり、すでに山形浩生も同様なことをいっている。本文では貨幣的現実をかっこにいれていたのにこちらの文脈では無条件に認めているようにみえるのは釈然としないが、まあ正論ではある(その立ち位置は個人的に好きではないが)。
一方に都立高で「奉仕」という科目が必修になるというニュースがあるなかでは、貨幣的現実のほうがまだましかもしれないと思ったりもする、
★★