姑息なことをされて憮然とする
文化庁が行った平成15年度「国語に関する世論調査」の結果によると、「姑息」という言葉の正しい意味「一時しのぎ」を答えられた人は12.5%、「憮然」の方の「失望してぼんやりとしている様子」は16.1%だったそうだ。かくいうぼくもまちがえて理解していた口だ。
もともと言葉の意味というのはどんどんかわっていくもので、これが正解というものが必ずしも存在するわけではない。ただ、漢語の場合、意味が字義からずれるのはおかしいといわれるし、慣用句の場合も本来の意味が通らなくなるのは変だといわれる。それだけの話だと思う。
もともと、辞書に載っているのは、イコールで結ばれる意味ではなく、あくまで近似にすぎない。見出し語とその説明は、使われる場面も完璧には一致しないし、ニュアンスも微妙に異なるものなのだ。というより、言葉が内在的に意味をもっているわけではなく、その言葉を言う/聞くという実践の中からじわじわと意味がうまれてくる。
たとえばAさんの態度をさして、Bさんが「彼は憮然としている」という。それを聞いたCさんは、Aさんの態度と「憮然」という言葉を対応させる。そこから意味が生まれるのだ。
だから、意味をまちがえてけしからんというよりも、なぜ意味が変わっていったのかを考えた方が面白い。今回の二つの言葉についていうと、「失望してぼんやりとしている様子」という意志が弱まっている状態を逆に「腹を立てている様子」という強い意志が感じられる状態に見誤ることが多かったことを示しているし、「一時しのぎ」で困るのは通常一時しのぎなことをしている本人なのに、それが「ひきょう」だと受け取られるのは、一時しのぎが結果的にうまくいってしまう時代が続いてきたとも考えられる(あるいは成功している人の「ひきょうさ」をののしるのに、そんなに長く続くはずがないという意味で「姑息だ」といっていたのかもしれない)。
というわけで、言葉は鏡だ。