進行形
またひとつ年をとっちまった。
そういえば、横浜市長が青少年の特段の理由のない夜間外出は親から罰金を徴収する条例を作ったらどうかという発言をしたとき、それはどう考えてもおかしいだろうと当然のように思ったのだが、勤務先での何気ない会話で、ぼくより年下の人が親としての立場からこの条例に賛成するのをきいて、その意見そのものではなく、親からみた視点というのに、へえと思わされたのだった。何せ、ぼくはこの年になっても、規制される青少年側に立って考えている。青臭い正義感はぬけないし、よくも悪くもまだ子供なのだ。
大人になるということは、ある意味、「現実」は変えられないということを認めて、その中でなるべくうまくやっていこうとすることのような気がしている。それで思い出すのがこの間北田暁大さんの試行空間で見かけたjounoさんのコメントだ。
悪しき意味でのリアリズムというのは、そうした現実主義がよっている認識された現実というのは、完了形の現象としてあらわれたかぎりでの現実性でしかないことを忘却しているために、そうした、在来の経験的事実性が、「たまたまそうであった」可能性を考えない。その意味で、完了形ではない進行形の現実を構成している、「潜在性」としての非実勢的な非現実のリアリティを認めない……。
つまりは、「完了形」と「進行形」の現象があわさって「現実」を構成しているのに、現実主義者と呼ばれる人の中には、「完了形」の方だけみて「進行形」の方からは目をそむけている人がいるんじゃないかという指摘だと思う。でも、この場合の「進行形」の現象というのは、自分の中になにか「進行形」のものがあってこそ見えてくるものなのかもしれない。
考えてみれば、大人でないといいながらもぼくの中には、今「進行形」のものはひとつもなく、それどころか「完了形」もひとつもない。婉曲な時制と法で語られるわけのわからないがらくたばかりだ。だが、今日この日にあたって、ひとつは「進行形」のものをもたなければいけないと思うのだ。
大人の人たちが前だという方向にはちっとも進みたいと思わないので、まずは顔を上げてぼくにとっての前となる方向を見つけなければ、と毎年いっているような気がする。