公正/コミュニケーション/陰謀論

NHK番組改変問題がちまたでさわがれている。

いろいろ職業がある中で、「生み出す価値÷社会的地位」というのを仮に数値化できたとすると、日本で下位2つを占めるのではないかと思っているのが、政治家とマスコミ関係者で、今回の問題も、同じボケとつっこみを延々と繰り返す笑えない漫才をやっているようにしか見えなかったりもするが、たぶんオチはないのだろう。

この問題について特にいうことはないのだが、一般論として、公正な立場というのは、そういう特権的な立場があることを意味するわけではない。どんな立場もそれぞれに偏向しているのだ。複数の偏向した立場があることを前提として、その多数決をとることでも、平均値をとることでも、ひとつ上のレベルからメタに語ることでもなく、それら複数の立場の間でのコミュニケーションを求める姿勢のことを公正というような気がする。公正さの中に含まれる「正しさ」というのは、超越的に与えられるものでも、ただ漠然とそこにあるものでもなく、コミュニケーションの中で一瞬かいま見えるものだと思う。

ただ、このコミュニケーションはいつでもどこでも可能なものではない。

コミュニケーションをはばむもの一つが、いまはびこっている陰謀論だ。陰謀論を採用すれば、あいつが○○だというのは実は裏に××という意図があるからだということになって、何をいおうが××ばかりが受け取られてしまう。しかも、この誤った深読みは実は予言のような構造になっていて、結果としてあたってしまうのだ。

陰謀があると決めつけられた方(Aと呼ぶ)は、決めつけた方(Bと呼ぶ)の言葉にある意図を感じざるをえない。その意図は「Aはある陰謀をもっているので気をつけろ」というものなのだけど、Aは逆にBの側に陰謀らしきものを感じ取ってしまう。つまりどちらも「相手の陰謀に気をつけろ」という陰謀をもっていることになって、それは相手がもっていると想定している陰謀とは異なってメタなものだけど、結果的にとてもよく似てしまう。こうしてまさに予言は成就する。

これではコミュニケーションは不可能で、公正さもまた不可能になってしまう。

単純に陰謀論はやめろといいたいが、ごくまれに陰謀論が正しいことがあるのが困りものではある。