柄谷行人『倫理21』
この本もまた責任に関する本だ。最近もあったが、少年犯罪が起きると決まってその親の責任が問われる。これは欧米にもアジアにもみられない日本独特の現象らしい。その責任は「世間」に対するもので、この「世間」をおそれて日本では親も子も互いに拘束されながら生きざるを得ない。親子関係以外でも、日本では、人々の間には友情もなく、無関心で、ただ何となく同調しあいながら暮らしているだけなのだ。
というところをとっかかりに、本書では主にカントの思想をひきながら、倫理的であるということがどういうことなのか具体的に語られる。カントというと道徳を強調する古くて固い思想家というイメージが強かったが、ここではそのラジカルさが明るみに出される。カントの道徳というのは「自由であれ」というただそれだけのことなのだ。スピノザがいうように人間に自由意志というものは存在せずさまざまな関係性から機械的に行動しているにすぎないのだが、同時にそうして行ったことを、「自由であれ」という義務にしたがって、自分の責任として引き受けなければならない。それが道徳なのだ。
カントが「他者を手段のみならず同時に目的として扱え」という「他者」には過去の死者および未来のまだ生まれていない人間たちが含まれる。前者は戦争責任の話につながり、後者は環境問題につながる。
戦争責任についていえば、善悪という問題と別に理論的に原因を追及することが必要で、その上で実践的な問題として他者(外国人)に対する責任が発生してくる。(この部分ではサルトルがフランスの植民地主義を執拗に攻撃したことを擁護する形で紹介している。同じことを内田樹が批判的に書いているのと読み比べるとおもしろそうだ)。
環境問題については、資本主義の無制限な拡大志向を批判して、マルクスがいうところの「可能なるコミュニズム」つまり消費-生産協同組合のアソシエーションを資本主義のオルタナティブとして挙げている。たぶん、ここが一番意見がわかれるところだろう。一方では、資本主義のもとで経済が成長してゆくことによって技術革新がおこり、環境問題が改善されるという考え方もある。今の日本で左右がいがみあっているのはほとんどが妄想に基づくようなことで、ほんとうに問題とすべき論点はこういうところにあるような気がする。
★★★