大塚英志『「おたく」の精神史 一九八○年代論』

「おたく」の精神史 一九八〇年代論

大塚英志の書く文章は直感に頼りすぎて論理的な精緻さに欠けると、非論理的な直感で思っていたのだけど、本書を読んで、その直感の鋭さに驚かされた。1980年代(一部1990年代もとりあげられる)を近代の終わりととらえて、編集者、文筆家としてその時代を駆け抜けた自分自身の軌跡を自負を交えて描きつつ、送り手としての立場で関わったサブカルチャーの変遷、そして宮崎勤、オウム、酒鬼薔薇聖斗などの犯罪、岡田有希子の自殺、昭和天皇崩御などのサブカルチャーが影響を受けずにいられなかった政治・社会の出来事を、単なる過去の回顧ではなく、現在につながる視点から鋭くえぐった評論だ。

いきなり自分の話から入るが、ぼくは「おたく」と近い行動パターンをもっているけど、趣味趣向は「おたく」とずれているし、メンタリティも違う。「おたく」でないとすればなんだろう?と自分が属するカテゴリーを表す言葉をうまく見つけられずにいたのだけれど、第一部を読んで、自分が「新人類」というカテゴリーの端に位置しているのがわかった。もちろん「新人類」という言葉は知っていたが、もうほとんど死語になっているし、何よりそれはカテゴリーというより世代を表す言葉だと思っていたのだ。「おたく」と「新人類」を対比させるのは大塚英志が始めたことではなく、宮台真司が先行して「おたくの階級闘争」としてとりあげたようだが、ここではさらにつっこんで「新人類」のだめさ加減が辛辣にとらえられている。「新人類」というのは単に「消費者としての主体性と商品選択能力の優位性」だけがとりえの、「何物でもない」人間にすぎない。「おたく」にはパワーがあり今巨大な市場となっているが、「新人類」は「差異化のゲーム」に熱中して努力を怠っているうちに(ぼくを含めて)絶滅の危機に瀕している。「おたく」と自認している大塚英志の最近の活躍も「おたく」勝利のひとつのあらわれかもしれない。

そんな「おたく」的なタームにうといぼくでもはげしく刺激を受ける本だった。いくつか内容を拾ってみよう。

「新人類」の仕掛け人(というより煽動者)として糸井重里が名指しされている。彼は垂直的な価値の上下があるものをわざと横並びであるように見せて、「すべてが等価」であるというメッセージを送り、現実には何の能力もない若者たちを煽っていた。階級差を消滅させるという意味で、大塚英志はこれを「左翼革命」と呼んでいる。つまり糸井重里=革命家というわけだ。この比喩がどれほど的確かわからないけど、ぼくが今の糸井重里に対して感じているある種の違和感は革命を達成したあとの革命家の姿に対するものと考えれば微妙に納得できるような気もする。

ぼくは、今の日本人の政治的なものを避けようとする態度を「無垢さ」と呼んで、それを批判する文章を書いたことがあるけど、大塚英志も、昭和天皇崩御の時に皇居に記帳に集まる若者をみて同じ「無垢さ」というものを感じたらしい。ただし、彼は「イノセントさ」という言葉を使って、単なる「無垢さ」以上に「責任の主体になれない」、なりたくないという感性をみてとっている。それはとても鋭い指摘だ。そういう中から生まれてくる「病んで傷ついた自分をカミングアウトする」かのようなナショナリズムを「アダルトチルドレン系」と名付けるセンスがすばらしい。

90年代に入り、「おたく」化は進行し、主体となることを拒んで成熟しないまま「「私」を社会と関わりのない領域に成立させる」メンタリティが広まってゆく。大塚英志は、酒鬼薔薇聖斗をそういう風潮にあらがって、自己実現をはかろうとした人間だととらえる。彼は、何者かにならなければならないと感じたが、なるべきものはどこにもなかった。それで悲劇が生じた、と。今世の中を席巻する「透明なナショナリズム」は、こうした主体の不在の隙間を埋める形で、訴求力をもつようになってきたのだ。

★★★★