カート・ヴォネガット(浅倉久志訳)『タイムクエイク』

タイムクエイク

積読解消月間。

『タイムクエイク』は現在のところカート・ヴォネガットの最後の小説で、本人が作中で公言するところによればそのまま最後の小説になるであろうといわれている。

小説と書いたがこの作品が文字通り小説といえるかどうかは難しいところで、時間の急激な逆行と、それからもとの時間にもどるまでの以前起こったことをそのまま繰り返すだけの自由意志を欠いた状態、それにまた自由意志が戻ることによって起きる混乱を描き、『タイムクエイクI』と仮に名づけられたそれなりに小説らしい作品があったのだが、ヴォネガットは完成直後これを駄作ときめつけ、こなごなにして再利用することにした。そのまぜものに使われたのが、作者のこれまでの人生をとりまく人々のエピソード、そして作者の分身ともいえるSF作家キルゴア・トラウトが書く短編小説だ。ヴォネガットがこれまでに書いたすべての作品の大団円を飾るように、作者をとりまく人々やトラウトがパーティで一同に会する場面が用意されている。

ハードカバーで出た時に買ったのだが、全編をつらぬく基調のひとつとなっている科学技術の進歩に対する嫌悪に、老人の頑迷さをかぎとってしまって、白けた。ほかはいざ知らず本のなかでこきおろされる対象の一つのコンピュータ(およびインターネット)についていえば、それは見知らぬ人と人の距離を狭めヴォネガットの提唱する「拡大家族」の基幹になりうるものだし、また個人の能力の限界を広げてくれるものだと思っていた。その意見は変わりはしないが、少しだけ時が流れて、同時に、それは、悪意や偏見のようなものを効率的に流す機械にもなりうることがわかってきた。悪貨が良貨を駆逐するのは比喩なんかじゃなくて単なる事実に過ぎない。正確な情報より悪意や偏見を含んだデマの方がより遠くまでより深くいきわたってしまう。

そんな風に自分の意見が少し変わってきたから読もうとしたわけではなく、ものごとには何でも潮時というものがあって、それがたまたま今だったのだと思う。ヴォネガットの言葉はクソのような悪意や偏見よりずっと深く胸に届いた。

一番よかったのは死期の迫った先妻が「なにが自分の死の正確な瞬間を決めるのだろう」とたずねたときに、ヴォネガットが返した言葉。

日焼けして、腕白で、退屈した、だが、決して不幸ではない少年、わたしたちの知らない十歳の少年が、スカダーズ・レーンの砂利浜、そこからボートをおろす斜面に立っている。少年はべつに何をみるともなく、ぼんやりとむこうをながめている。ケープ・コッドのバーンスタブル港内の島や、船や、そんなものを。(中略)この少年は、ほかにすることもないので、男の子がよくやるように小石を拾いあげる。少年の投げた小石は港の上に弧を描く。その小石が水面に落ちたとき、死の瞬間が訪れる。

★★★