カート・ヴォネガット(池澤夏樹訳)『母なる夜』
再読。以前は飛田茂雄訳の早川文庫版で読んだが、今回は好きな作家である池澤夏樹の訳で読んでみようと思って、わざわざ買った。だが、後発ということもあってか、飛田訳の方がわかりやすかった。
アメリカ人でありながら、ナチスの対米宣伝放送を自作自演していた男キャンベル。だが、それはアメリカ軍のスパイとして情報を電波にのせるためだった。だが、あまりにもうまくナチの一員を演じきってしまったため、戦後も隠れて暮らすはめになりさまざまな悲しみをまねきよせてしまう。
キャンベルの完璧なナチぶりとは逆にアメリカのスパイとしての活動は放送中に変な抑揚をつけたり、わざとつかえたりすることだった。言葉を使って表向きの意味と逆のことを伝えるなんてなかなか哲学的な行為だが、どちらがより高度な技量が必要な行為かといえば、当然ナチとしての活動になってしまう。それで早川文庫版のあとがきで訳者にこんなことをいわれてしまうのだ。
キャンベルは責任能力を欠いた分裂病の患者ではありませんが、人格統一機能が不完全という意味では欠陥人間ということができます。その統一機能は、人間愛に基づく建設的な方向性ということになるでしょう。
なんだかとても古典的な人間像だ。ぼくは、現代的な意味で、キャンベルほど人間的な人はいないと思う。人は結局自分という役を演じているにすぎないのだ。だからこそ、巻頭に書かれた教訓「われわれが表向き装っているものこそ、われわれの実体にほかならない。だから、われわれはなにのふりをするか、あらかじめ慎重に考えなければならない」(飛田訳。池澤訳ではなぜか「読者のみなさん」がまるごとカットされている)という言葉がいきてくる。
キャンベルはその妻へルガとの愛の世界にだけ忠誠をちかった人間だ。ラスト近くでキャンベルがはきすてるようにいう「悪とは、愚か者のなかにあって、人を罰し、人を中傷し、喜んで戦争をおっぱじめる部分のことさ」という言葉の中にある「悪」にそういう無垢な立場は簡単に汚されてしまう。
キャンベルの罪は悪から身を守るすべを知らなかったことだ。でも、それを誰が知っているだろう。だって、ほら、悪はそこにも、あそこにも、そこらじゅうに見え隠れしているんだから。
★★★★