浅羽通明『ナショナリズム——名著でたどる日本思想入門』
ぼくには心情的にナショナリズムはわからない。といっても、そういうぼく自身を含めてほとんどの人はコスモポリタン的には生きられないわけで、この国という単位に特別な関心をもつのは当然のことだし、必要なことでもある。広い意味でそれを「ナショナリズム」と呼んでもいいはずで、そういう意味でぼくも「ナショナリスト」のはしくれでもある。まあそんなこんなで本書を手に取ったわけだ。
明治から現代にかけての十の名著を通してさまざまなナショナリズムの形がみえてくる。明治中期、満州で諜報活動に従事した石光真清という軍人の伝記からうかがえる、列強の脅威に立ち向かうというプラグマティックな意識に貫かれたナショナリズムから、今や過去の人になってしまった感のある小沢一郎の著書『日本改造計画』の軍事力を含めた国際貢献を通じて名誉を得ようとする開かれたナショナリズムまで。
一番興味深かったのは、中年サラリーマン御用達と思っていた司馬遼太郎だ。彼はナショナリストだったが、合理主義者で近代主義者だった。太平洋戦争のときにはびこった徒な精神主義を憎み、有能な個人がその力を発揮できる時代を望んでいた。ぼくが日本流のナショナリズムで苦手なのはそこから切っても切り離せない精神主義、非合理主義の部分なので、実は司馬遼太郎のナショナリズムにはそれほど違和感は感じないのかもしれない。
自ら臨床思想士と名乗るだけあって、テキストの選択やその取りあげ方は見事だ。ナショナリズムがそもそも幻想に過ぎないことは当然前提とされているし、肩入れしすぎることなく、ちゃんと突っ込むべきところには突っ込んでいる。そのバランス感覚がすばらしい。終章で「左右極端へ振れすぎてきた振子も、今ようやく中央へ鎮まりつつ」と書いてあるように、著者は日本のナショナリズムの現状に極めて楽観的だ。レイシズムの勃興や、戦前、戦中への憧憬にあふれた自民党の憲法草案などをみていると、そう手放しでみていられない気がする。そもそも現在右派とみなされている彼らレイシストや自民党の人たちはナショナリストなのだろうか。違う気がする。終章で「枯れ尾花に怯え」ていると手厳しく批判されている香山リカさん(その批判は大きく的をはずしていないけど)と対極的な空想の世界に生きる人たちだ。彼らの手からナショナリズムを取り戻さなくてはいけないと切に思う。ナショナリズムは弄ぶのには危険すぎる玩具なのだ。