ガウラヴ・スリ&ハートシュ・シン・バル(東江一紀訳)『数学小説 確固たる曖昧さ』
ルイス・キャロル的あるいはポストモダン的なものを期待して手に取ったが、物語や語り口はきわめてオーソドックス。というよりそれは主役ではないのだ。主役は、数学、そして真理が果たして存在するのかという中二病的な問、この二つだ。
数学に関しては、興味を持ちながらも今まで学ぶ機会がなかった(当然中二病的な)若者たちが大学の教養の講座に参加するという形で話は進む。無限という概念をめぐる話をとば口にカントールの集合論までいくトピックと、ユークリッド幾何学の公理系をめぐるトピックの二本立て。初心者にもわかりやすく順を追って書いてあるし、ある程度知っていても知的好奇心をかきたてられてる。
真理については、キリスト教的価値観をかたくなに信じる判事と、数学こそが真理だという公共の場で神を侮辱した罪に問われている容疑者二人の対話編という形で進んでいく。相容れない考え方の二人が数学を通して少しずつ理解を深めるというか、まずは判事が一方的に歩み寄っていくが、そこに非ユークリッド幾何学(とアインシュタインの一般相対性理論)があらわれ、両者とも打撃を受けた末に、リベラルで相対主義的な境地にいたり、最終的に和解する。
ぼくも小、中学生のとき、みずから合理主義者を自称して、理不尽でいやなことばかりの学校は無意味だと(影で)息巻いていたが、今では学校には学校の意味があるのだと思っている。ただ基本的な考え方はそのときとまったく変わらないし、あの学校に限れば意味なくてひどかったのは確かだと思う。非ユークリッド幾何学を知っても何の打撃にもならなかった。重要なのは。個々の公理の正しさじゃなく、それを材料に公理系を構成できる論証の力だと思っていたからだ。たぶん、そこに打撃を与えるのはむしろ、本書ではわずかに名前が出てくるだけのゲーデルの不完全性定理の方だろう。いや、実際は逆に、不完全なことさえわかってしまうなんてすごい、と思ったわけだが。
著者たちがきちんと註を補って、現実と虚構の部分を線引きしようとしている姿勢に好感がもてる。とても読みやすくてすらすら読んでしまった。
★★