『フラナリー・オコナー全短編(上・下)』(横山貞子訳)
たぶん、フラナリー・オコナーの作品を読む前に彼女の人生について知っておいた方がより理解が深まると思う。キーワードは3つ。「アメリカ南部」、「カトリック」、「病気」。
1925年アメリカ合衆国南部ジョージア州に生まれた彼女は学業のため東部に移り住んだ数年間をのぞいてはジョージア州で暮らしている。南部を舞台にし、その空気感漂う作品がほとんどだ。
彼女は生涯敬虔なカトリック教徒だった。新教徒が多いアメリカでは少数派だ。作品の中にも信仰をベースにした神秘体験が登場する。
彼女は15歳のときに父を狼瘡という病気で失っている。そして25歳のとき彼女自身も同じ病気にかかってしまう。それから闘病生活がはじまり、1964年39歳の若さで亡くなっている。寡作だったこともあり、遺された作品は少ない。短編はこの二分冊の中にすべて収まってしまう。
決して抽斗の多い作家ではない。舞台はほとんど南部だし、主人公は彼女の母親を思わせる農場の女主人、生意気で無力な若者などいくつかのパターンにおさまる。黒人は何人も出てくるが彼らの視点で語られる話はひとつもない。すばらしいのは、その本質を深くえぐりこむような比喩と、情け容赦なく訪れる衝撃的なクライマックスの描写だ。その中でも一番気に入ったのは『人造黒人』という物語。田舎に住む老人がただひとりの家族である孫に見せようとアトランタ見物に出かけるが、さんざんな目に遭った末に、自分のせいで群集に責め立てられている孫を見捨ててひとりで立ち去ってしまう。徐々に後悔の念に苛まれる老人。彼の魂に救いは訪れるのか……。
全体を通して気づいたことが二つ。ひとつは無神論でリベラルの人(ほとんどは若者)が主人公の物語が多い。彼らは頑なで、一面的で、無力な人間として描かれている。フラナリー・オコナーは単にカトリック教徒の視点から彼らを戯画化しているわけじゃなく、そのリベラルさは彼女の中に確実にあるもので、そこにはそうであったかもしれない自分に対するような共感がある。ただ、南部という土地柄のせいだけでなく、弱い一個人が一貫してリベラルでいることはとても難しいのだ。その困難に対する半ば自虐的な洞察とそれゆえに深められた信仰に対するプライドみたいなものが感じられる。
そしてもうひとつ。宗教が絶対的に必要とされる契機として、彼女は恥辱をメインに考えていたような気がする。『人造黒人』の老人が感じた恥辱、リベラルな若者たちが挫折とともに味わう恥辱、そしてある意味彼女自身の病気という恥辱。これらの恥辱によって自立した個人としての尊厳はいったん打ち砕かれる。この絶体絶命の窮地から魔法のように救い出してくれるものとして宗教がある。必ずしも明示的に宗教が救い主として登場するわけじゃないけど、そう読み解ける気がするのだ。(ちなみにぼくは宗教の代わりに忘却に頼っている。忘却こそが神だ。)
以前からずっと気になっていた本だった。最近書店で見かけなくて絶版かもしれないと思っていたところに、池袋のジュンク堂でみつけて確保したのだ。久々にすばらしい読書体験だった。
★★★★