サリンジャー(野崎孝訳)『フラニーとゾーイ』
電車で前の席に座った男性がカバーもせずに読んでいるのをみて、それじゃぼくも読んでみるかと、渡されてもいないリレーのバトンを受け取ったのだった。
まさかこういう話だとはまったく予想してなかった。かろうじて兄と妹の物語だということは知っていたけど、兄がフラニーで妹がゾーイーだと思っていたし、もっと幼い兄妹かと思っていた。実際はグラース家7人兄弟の末の二人、ゾーイは売り出し中の俳優で25歳、フラニーは女子大生で20歳だ。
1955年11月の土曜日(ということは5日、12日、19日、26日のいずれかだが本編には明記されていない)がボーイフレンドのレーンに会うところから物語ははじまる。久しぶりのデートなのにフラニーは心ここにあらずという体で、食事ものどを通らず、終始会話はかみあわないままで、ついにはレストランで気を失ってしまう。
という文庫で50ページ足らずの短編『フラニー』を枕に、その二日後月曜日のニューヨーク、グラース家における出来事を描くのが、その4倍くらいの長さの中編『ゾーイ』だ。フラニーは居間のソファーに寝たままスープを飲む元気もない。彼女をそこまで追い込んでいるものは何なのか。簡単にいってしまえば、持ち前の利発さと観察眼で、身の回りの人々の自己顕示欲を見抜き、やり玉にあげていたのだが、その矛先が自分や自分の愛する人々にも向き始め、どうにも身動きがとれなくなってしまったのだ(それで入れ込んでいた演劇もやめてしまった)。人は単なる憎悪や愛を受け入れることはできるが、ひとつの対象を愛せとという命令と憎めという命令を同時に果たそうとすると、精神の平衡がこわれてしまう。それは、青年期特有の潔癖さがなせる業といっていいかもしれない。
話を難しくしているのが、フラニー(そしてゾーイ)は幼い頃から長兄シーモア(『ナイン・ストーリーズ』所収の『バナナフィッシュにうってつけの日』で拳銃自殺を遂げている)と次兄バディ(このシリーズの語り手)から東西の神秘思想の手ほどきを受けて育っていることだ。フラニーは今『イエスの祈り』という、純朴な農夫が聖書に書かれている「絶えず祈る」ということが何を意味しているかという問の答えを求めて各地を遍歴する物語の中に救いを求めようとしている。しかしどうやら、その物語は彼女をより一層深みへと追い込んでいるかのようにみえる。
ゾーイはフラニーの精神的平衡をとりもどすため対話を重ねる。しかし皮肉屋の彼の言葉はなかなかフラニーには届かず、かえって怒らせ、傷つけてしまう。もうほとんど望みはないようにみえ、ゾーイも途中であきらめかけバディを電話で呼び出そうかとフラニーにさそいをかけるが、シーモアと話したいと返されてしまう。
ここで伏線がきいてくる。シーモアとバディがかつて二人で使っていた部屋に残された使われていない電話だ。突然バディからだという電話がかかってきて、フラニーを電話口に呼び出す。フラニーにすぐ見抜かれてしまうが、それはゾーイが兄たちの部屋の電話からかけているものだったのだ。バディからだと偽られたその電話は、奇跡のように、フラニーが待ち望んでいたシーモアからの言葉を伝える。それは「太っちょのオバサマ」(the fat lady)の存在に集約される。ガンを患っていて、一日中ヴェランダに座ってラジオをかけっぱなしにしているそんな女性。彼女のために演じるのだ。すべての観客は彼女であり、彼女はイエス・キリストでもある。それをきいてようやく彼女はすべてを癒す深い眠りにつく。
とてもよくわかると同時にさっぱり理解できないエンディングだ。読者には不思議な爽快感と共に謎が残されている。 Who is the fat lady? その謎の豊かさに目がくらみそうだ。
★★