バルザック(宮下志朗訳)『グランド・ブルテーシュ奇譚』
きっかけは、架空の人物のフルネームがタイトルになっている文学作品をさがそうと思ったことだった。古今東西の小説家をひとりひとり思い浮かべるうちに、バルザックなら絶対にフルネームタイトル作品があるはずだと思って、調べてみたら、予想通り。でも、ちょっと待て。いままで、そのバルザックの作品をまったく読んだことがない。ここは、どれか一冊読んでみるべきなんじゃないか。いきなり長編というのも骨が折れるので、短編集、ということで本書を手に取ったわけだ。
短編が4つと、書籍業に関する評論が一編。短編のうち3つは、年上の結婚している(あるいはしていた)女性と若い独身男性の恋愛を扱った、ロマンチックな筆致の作品だ。『ことづて』という作品には若い男性二人がアラフォー女性の魅力について意気投合するシーンがあったりする。近代的な恋愛というスタイルの源泉のひとつは騎士道物語だといわれているから、西欧の文化では、既婚の年上女性と若い男性という組合せはかなり一般的かもしれない。ちょっと脱線するけど、こうしたフランス文学にひたりきった永井荷風が日本に帰って書いたのが、花柳界を舞台にした作品なのは、たぶんそこにしか自由恋愛を見いだせなかったんだろう。
一番完成度が高いのは表題作の『グランデ・ブルテーシュ奇譚』だろう。ある夫婦の破滅の謎を、中途半端に事情を知る二人の人物から別々に語らせておいて、最後にその断片をつなぐ形で真相を明らかにするという構成が見事だし、その真相もなかなかインパクトがある、ミステリータッチの作品だ。
最後に収録された評論の中で、バルザックは、当時(19世紀前半)のフランスの書籍業が、分業化が進んで書籍が読者の手に渡るまでのコストが増え、手形決済の長期化で書籍を粗製濫造する風潮がうまれているとなげいている。文化人が資本主義の発達に対して危機感を訴える構図。なんか、いつの世もかわらない。バルザックはこの評論を書いた後、自ら書籍の直接販売に乗り出したが失敗に終わったそうだ。そういう現世的な生臭さが確かに小説にもあらわれている。
バルザックの作品は「人間喜劇」というコンセプトで相互に登場人物やエピソードが相互に関連している。本書に収められた短編に出てくる人物が、ほかの作品に登場したり言及されたりすることがあるそうだ。そういう関連をみつける楽しみもあるので、次は長編を読んでみよう。