ウィリアム・シェークスピア(小田島雄志訳)『テンペスト』
寓話的なストーリーで演出家のさまざまな解釈を誘ってきた作品だが、震災、原発事故を経験した今、新たなアクチュアルな意味を持つんじゃないかと思って、きちんと読んでみることにしたのだった。
ストーリーはきわめてシンプル。12年前奸計に陥って、ミラノ大公の地位から追い落とされ、幼い娘ミランダともども無人島に流れ着いたプロスペローは魔法を極め、妖精を従えてさまざまな奇跡を起こせるようになる。そんな中かつて自分を陥れた人たちが乗る船が近くを航行し、プロスペローは魔法で嵐を起こし船を難破させる……。結局、プロスペローの計画は成功し、彼はミラノ大公の地位を取り戻す。そして、過去のことはすべて水に流し、魔法の力を放棄する。
この物語を魅力的にしているのは、キャリバンの存在だ。プロスペローより先にこの島に流れ着いていた魔女シコラクスから生まれた奇形の怪物。いわば先住民ということになり、プロスペローは最初言葉を教えて一緒に住むが、ミランダを辱めようとしたので追い出し、今は奴隷として使役されている。悪口三昧で生来邪悪ということになっているけど、間抜けで信じやすくてどこか憎めないやつなのだ。キャリバンの屈折した心は、結構わかってしまったりもする。プロスペローが自らいうようにあとは死を待つだけの終わってしまった人間だと考えるなら、未来を託せるのはキャリバンじゃではないだろうか、とそんな気さえしてくる。
とはいえ、プロスペローの諦観は、すべてを成し遂げた満足感によるものだ。彼が語る「われわれ人間は夢と同じもので織りなされている。はかない一生の仕上げをするのは眠りなのだ」という台詞は有名だ。あと、彼が最後に一人だけで舞台に立って観客に拍手をこう場面がいい。「私の魔法は消えました。生身の私となりました。私をここに残すのも、あるいはナポリにかえすのも、皆様次第でございます」と下手に出る。そう、観客の祈り、拍手、それこそが演劇における魔法なのだ。