セルバンテス(牛島信明訳)『ドン・キホーテ(後編)』

ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫)ドン・キホーテ〈後篇2〉 (岩波文庫)ドン・キホーテ〈後篇3〉 (岩波文庫)

前編『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の10年後に出版された後編は『機知に富んだ騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』というタイトルだ。タイトルの変化は伊達ではなく、久しぶりに遍歴の冒険に繰り出したドン・キホーテ、サンチョ・パンサ主従をとりまく環境が大きく変わっている。前編が大当たりして彼らが有名になったという現実世界での事実が物語の中にも反映して、ドン・キホーテは無名の狂人ではなく、有名な狂人になってしまったのだ。だから、冒険はドン・キホーテの妄想から生まれるのではなく、彼を本で読んで知っていて、からかってやろうとする物好きな人々によってもたらされる。前編では、ドン・キホーテたちの冒険より彼らが見聞きする挿話的なサブストーリーの方が分量的に主だったが、後編は名実ともにドン・キホーテたちの冒険の物語になっている。

特に、サンチョ・パンサの活躍はめざましく、短期間ながら領主になって島(?)を治めるのだ。その統治ぶりがなかなか見事で、周囲の人々や読者を驚かせる。

おもしろいのが、後編が出版される前年にアベリャネーダという正体不明の人物によりドン・キホーテの続編が出版されていて、そのことに対する明らかに憤懣の混じった言及が何度も出てくること。如何に価値が低いか、正編のキャラクターと違うかを証明することに躍起になっている。逆にそのことで、アベリャネーダ版の贋作は世に名を残すことになってしまった。今は入手困難だけど、日本語訳が文庫で出ている。なお、現在もっとも有力な説だと、アベリャネーダは、ドン・キホーテ正編の方に何度か登場するヒネス・デ・パサモンテという盗賊のモデルになったヘロニモ・デ・パサモンテというセルバンテスの戦友らしい。物語と同様におもしろい事実だ。

結局、ドン・キホーテは思い姫ドゥルシネーア(そのモデルになった田舎娘を含めて)とは一度もあわないままだったんだけど、彼女に対する恋というのはまさにプラトン的な恋だと思った。ほとんど抽象概念を恋するに等しいのだから。

さて、ドン・キホーテは自分の村に帰り着くと同時に死の床についてそのまま亡くなってしまうのだけど、その際正気を取り戻してそれまでの自分の狂気を後悔する。ただひとりの肉親の姪に、騎士道物語を読む男と結婚するなと遺言したりもするのだ。彼は遍歴の騎士ドン・キホーテとして死んだのではなく、郷士アロンソ・キハーノとして死ぬのだ。セルバンテスは、もうこれ以上贋作を作り出させないために、この若干唐突な死の場面を用意したといわれているけど、実は、死んだのはキハーノという無名の郷士ということにして、ドン・キホーテに永遠の命を与えようとしたともいえるのではないか。