サン=テグジュペリ(二木麻里訳)『夜間飛行』

夜間飛行 (光文社古典新訳文庫)

20世紀に入って電気が都市の照明に使われるようになり、闇が光で満たされるとのと前後して、飛行機が空を飛び始める。しかし、これら二つの神秘の領域、夜と空が重なる、夜間の空は、長い間未踏の領域だった。この小説は、1930年前後、まだ危険だった夜間の空を、郵便機に乗って飛んだ、いわば開拓者たちの物語だ。

学生時代に新潮文庫版を読んでから、長い年月をおいての再読。新潮文庫版は、長編第一作の『南方郵便機』が併録されていたので、印象がごっちゃになっていたが、こうして『夜間飛行』だけあらためて新訳で読み返してみると、構成のシンプルさ、力強さに驚かされる。そして何よりも、比喩が際立った文章がすばらしい(訳もいい)。一文一文を大事にもれなく読みたくなるような感じなのだ。

学生時代、この本を読んで、感想文らしきものを書いたのだけど、確か、プロフェッショナルな職業意識からうまれる責務の感情を、尊いものとして肯定的にとらえようとしていた。個人が個人として、ある種の気高さを身につけるにはどうすればいいかということの答えがそこにあるような気がしたのだ(それは連帯や忠誠という窮屈な道徳からは得られない)。視野が狭く、文章もかなり稚拙だったはずだが、その論旨は間違ってなかったといまさらながら思う。

主人公の一人、郵便機会社を経営するリヴィエールは、たった一度のミスも容赦しない、自己にも他人にも厳格な男だ。自社の航空機が嵐で遭難するという難局のさなか、彼は、(「野外音楽堂のあたりを散策するささやかな街の民」という言葉で代表される)市民的な幸福や、愛を犠牲にしてまで、自分たちを駆り立てている責務は何なのかと自問して、それは優しさの一種だけど、ほかのどんな優しさとも異なっているという。それは、「永遠」への責務、つまり自分の身体や精神が滅びても残り続ける何かを求めるということだ。

このあたり最近読んだマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』にも通じるが、サンデルのようなコミュニタリアンなら、その「永遠」を国家や民族や宗教に関連づけようとしてしまうだろう。だが、それはいわば「過去」に対する責務だ。だが、本書でいわれている責務のベクトルの方向は真逆で、「未来」を向いている。それはチェーホフの戯曲にも共通する、「未来」の人々のためにたくさん働くことを正義とする考え方だ。ぼくは、今でもそれこそが美徳であり、「善き生」だと思っている。たぶん、昔感想文でいいたかったのもそういうことだ。