セルバンテス(牛島信明訳)『ドン・キホーテ(前編)』

ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)ドン・キホーテ〈前篇2〉 (岩波文庫)<img src=“http://i0.wp.com/ecx.images-amazon.com/images/I/51MNZKBHXDL._SL160_.jpg?w=660" alt=“ドン・キホーテ〈前篇3〉 (岩波文庫)” class=“alignleft” style=“float: left; margin: 0 20px 20px 0;”” data-recalc-dims=“1” />

ドン・キホーテを知らない人はいないだろう。ディスカウントストアの名前にもなっているし、風車を巨人だと思って突撃したエピソードは誰しも子供の頃に耳にしているはずだ。ところが、実際に小説を読んでみた人はほとんどいないのではないだろうか。何しろ、文庫本で6巻もの大作だ。

さて、今回、ゆっくりちまちまと続けている「古典を読もう」というライフワークの一環で、まず『ドン・キホーテ』の前編を読んでみた。前編と書いたが、前編と後編では書かれた時期も出版された時期も違っていて、独立な物語だ。前編は正式には『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ』というタイトルがついている。

まず、最初に書いておかなくてはいけないのは、ふつうにおもしろくてすいすい読めたということ。ドン・キホーテ、サンチョ・パンサ主従のとんちんかんなやりとりは抱腹絶倒だし、挿話的に語られる主に恋愛をテーマとしたサブストーリーはよくできていて思わず引き込まれる。何度も書いているが、古典がなぜ古典かと一番の理由はおもしろいからなのだ。

だが、単におもしろいだけなら、ほかにもエンターテインメントとしておもしろい本はたくさんある。今なぜドン・キホーテなのかという問に対して、自分なりに答えてみたいと思う。

その前にセルバンテスが『ドン・キホーテ』を書いたスタンス、立場について書いておかなくてはいけない。『ドン・キホーテ』はかいつまむと、おとなしい郷士が騎士道物語の読み過ぎで頭がいかれて、みずから遍歴の騎士となって旅立つというストーリーだ。セルバンテスの時代にはもう騎士などというものは実在していなくて物語の中の存在だった。とはいえ、騎士は決して古くさいものではなく、個人主義を体現する存在でもあったし、騎士道ものは当時広く読まれていたようだ。セルバンテス自身も熱心な愛読者だったのは間違いない。同時にセルバンテスはそのジャンルの一部の作品に反感を抱いていたようだ。ジャンルの成熟とともに、キッチュで奇をてらっただけの作品が登場し、それがかえって人気を博してしまうことが許せなかったのだろう。それで、彼はこのジャンルをパロディーにすることを思いついて、それが大成功をおさめた。今読んでも十分面白いが、当時騎士道物語を日常的に読んでいた人々にとって、そのおもしろさは格別だった。この『ドン・キホーテ』の成功がおそらくは衰えつつあった騎士道物語に引導を渡す役割を果たしたのだ。

余談だが、騎士道物語というのは、内容的にもポジション的にも、今でいうライトノベルのようなものだと思う。

さて、本題に戻って、今『ドン・キホーテ』を読む意味だが、ひとつには現代においても騎士道物語は実は廃れていない。レイモンド・チャンドラーやその後継者が書くハードボイルドの探偵ものは、まさに現代の騎士道物語のような気がする。『ドン・キホーテ』はハードボイルド小説に対するパロディー、批判としても読めるということだ。

またドン・キホーテをテーマにした作品は数限りなく存在する。ポール・オースターの『ガラスの街』なんかまさにそうだし、演劇の分野でも遊園地再生事業団『モーターサイクル・ドン・キホーテ』というのがあった。今から思えば、これらの作品のコアな部分は『ドン・キホーテ』を読んでないと理解できなかったと思う。そして、そういう作品の読みが、新たな『ドン・キホーテ』の読みを誘う。たとえば、ドン・キホーテは実は狂っていなくて、自ら騎士を演じて、物語に書かれるために、あえて、とんちんかんなことを繰り返したのではないか、とか。

と、いろいろ書いてみたが、いったんこのあたりで筆をとめておくことにする。このあとしばらくあけてから、後編を読むつもりなので、読み終わったら、まとめて続きを書くことにする。

前編は「おそらく誰かほかの者がよりめでたく歌うだろう」という意味のイタリア語の引用でしめくくられる。おそらくこの時点ではセルバンテスに続編を書く明確な意志はなかったのだろう。後編が楽しみだ。