柄谷行人『トランスクリティーク----カントとマルクス』

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

高くて分厚い単行本を手にとってため息をついてまた戻したことがあったが、文庫化されたのでようやく入手。

一般的に、カント→ヘーゲル→マルクスという矢印の右側が左側を批判的に乗り越えて新たな哲学体系をたちあげたということになっているが、本書ではその真ん中に位置するヘーゲルの価値を切り下げて、カントとマルクスの間をダイレクトにつなぐ。つまり、ヘーゲルはカントを乗り越えられなかったし、マルクスにおいて、ヘーゲルによって否定されたものが再び復活していると読む。両者に共通するのは、二つの相反するものの間に立ってどちらか一方に安住することなく絶えず視点を移し続ける態度だ。カントは経験論と合理論の間でそうしたし、マルクスも一般的な理解と異なり(マルクスはマルクス主義者ではなかった!)何か体系を作りあげることなく常に既存の体系の批判者として振る舞っていたとされる。

ヘーゲルは、18世紀前半に完成したネーションと国家(と資本)の一体化という現象を歴史の終焉としてみたが、マルクスは、歴史は下部構造の経済が上部構造のネーションや国家を規定するとして、資本を打倒すればネーションと国家は揚棄できると考えた。それに対し、本書では、基本的に資本、ネーション、国家は揚棄すべきものというマルクスの考えをそのまま引き継ぎながら、これらは資本=ネーション=国家とでもいうべき相互補完的な三位一体の存在であって、それぞれ別の交換原理に基づいた自律的な存在なのだという。資本はいうまでもなく市場における貨幣的交換、ネーションは農業共同体内の互酬的な交換、国家は収奪と再分配だ。近代になってこの中で資本がほかを圧倒したといえるが、再生産については家族等ネーションを構成する枠組みに頼らざるを得ず、国家も他の国家に対して主権者として振る舞わざるを得ないため存続し続ける。

といったところが、理論書としての本書の骨格。

分量としては圧倒的に少ないが、本書には、実践編とでもいうべき、実際、資本=ネーション=国家を揚棄するにはどうすればいいかということも書いてある。社会民主主義はこのトライアングルを強化するだけで解決にならない。筆者がいうには、交換にはもう一種類アソシエーションがあるという。アソシエーションは、資本=ネーション=国家のいいところ取りをしたものだ。つまり生産=消費協同組合を組織し、そこに個々人が自発的に参加する一方、資本制の企業に対しては労働力の提供をやめ不買運動を繰り広げる。組合内部には既存の貨幣と違って増殖しない代替貨幣を流通させ、執行部は選挙にくじ引きを組み合わせて選出するそうだ。

以下はぼくの感想。

代表者を選挙だけでなくくじ引きを組み合わせて選ぶというのは、権力の腐敗や固定化を防ぐことができるとてもいい方法のような気がする。アソシエーションの勃興を待たなくても、今の制度の中に取り入れたら、かなり有効だと思う。

一方、アソシエーションの経済的なリアリティについては、通常の貨幣を用いる限り資本制になってしまうという認識は正しいが(私見だと貨幣は負にならないという性質をもつかぎりにおいて増殖する)、代替通貨についてはLETSが不十分な例としてあげられただけで、詳細はかかれていない。だがもしうまい代替通貨のしくみができたとしても、それが通常の貨幣より魅力的でなければ、みんなそちらに移行しないだろうし、逆に魅力的だとすると、通常の貨幣のように増殖してしまうのではないだろうか。また、通常の企業でなく生産=消費協同組合に参加する理由も、どうしても倫理的なものが要請されてしまう。そうすると、メンバーはごく少数にとどまることになって、トライアングルを揚棄するところまでいかないだろう。

そもそも、このトライアングルのどういう点が悪かということが、詳細に検討されていない。いや、常識的に考えれば、戦争、格差、差別、環境破壊、恐慌等、いろいろ問題があるのはわかっているが、そういうものがどの程度までこのトライアングルの責任なのか、アソシエーションならほんとうに問題は解決するのか、ということは詳細に検討が必要だと思う。この本を書いた前後、筆者はNAM(New Associationist Movement)というアソシエーションの実践の活動に取り組むことになるが、それは失敗に終わっているのだ。

というように、過去や現状を分析した理論書としては深い洞察にあふれた本だけど、未来に向けた実践の手引きとしては不十分だった。まあ、考えてみればマルクスの著作全般もそうだったわけだ。著者には、実践は次の世代にまかせて、理論をどんどん突き詰めてほしい。というか、その願望はすでにかなえられて、『世界史の構造』という本が近刊予定らしい。