カフカ(池内紀訳)『失踪者』
従来、『アメリカ』という名前で知られていて、ぼくもそのタイトルで読んだことあるのだが、この間ナイロン100℃の『世田谷カフカ』という舞台でこの作品のストーリーがなぞられているのをみて、そのあまりのめくるめく不条理感覚と、それを自分がほとんど忘れていること両方に驚いた。
まずタイトルについては、カフカ自身は『失踪者』というタイトルをつけていたらしいが、遺稿をまとめた友人のマックス・ブロートはそれを知らずに『アメリカ』として出版したのだそうだ。その際、カフカが未完のまま遺した草稿を取捨選択、再構成したわけだが、本書はカフカの書いたまますべて収録というのがコンセプト。
でも、それで大きく印象が変わるわけでもない。末尾の「二日二晩の旅だった」という非常に短い断章が収録されていることで、より未完らしさが高まったことくらいか(訳者の池内紀が逆に「自然な終わり方」というのもうなずけるけど)。だから、この作品のすごさを最初『アメリカ』を読んだときに気がついてしかるべきだったということだ。
故郷のチェコで年上の女中にいいよられて子供ができてしまったことで、両親からアメリカに放逐されたカール・ロスマンという少年が主人公。船でニューヨークにたどりついた彼は運良く上院議員をしている伯父とめぐりあう。ところが不可解な理由でこの伯父からも見捨てられ、彼は身一つでアメリカを渡り歩くことになる。ルンペンたちとの旅、ホテルのエレベータボーイ、ブルネルダという太った女性の付き人、巨大な劇場の技術労働者……。
伯父から見捨てられる原因となる、カールが訪れたニューヨークの別荘の迷宮、競馬場の馬券売場を採用窓口にするオクラホマ劇場、そしてそのオクラホマ劇場の天使の姿をしたトランペット楽隊、高層アパートのバルコニーから見下ろす喧噪に満ちた選挙パレード。みずみずしい奇想に満ちている。
カフカ自身はアメリカに行ったことはなく、当然この小説に書かれているアメリカの描写すべて空想だ。後年に書かれた『審判』、『城』と同じく本書も、官僚制からよそ者として疎外されてしまった人の悲喜劇という構成をとってはいるけど、その官僚制は単一のきっちりしたものじゃなく、カールは船、伯父の家、ホテル・オクシデンタル、オクラホマ劇場という複数の官僚制の間を、疎外されては他へ移動するということを繰り返す。『審判』、『城』では疎外されてしまうと、死か膠着状態しかないのだが、『失踪者』では流動することができる。それがカフカの考えたアメリカの「自由」かもしれない。
ただし、最終的に自分を受け入れてくる場所が見つからなければ名前を失ったまま放浪し続けるしかなく、最終的には死が待っているだろう。そのあたりのストーリーのプランが『失踪者』というタイトルに込められていたような気がする。それは『審判』のように官僚制によって与えられた死ではなく、「自由」の結果としての死だ。カフカは、その死後勃興したナチスや共産主義国家の悪夢を予見したといわれることがあるけど、アメリカ的な「自由」がもたらす悪夢もまた同時に見通していたのかもしれない。