佐藤春夫『田園の憂鬱』

田園の憂鬱 (新潮文庫)

『美しき町・西班牙犬のいる家』を読んだ直後くらいに読もうと思っていたのだが、なかなか置いている本屋がなくて一年近くたってしまった。

作者の佐藤春夫自身とおぼしき神経衰弱気味の男が癒しをもとめて、東京近郊の農村に妻と犬猫ともども移り住むが、かえって状態が悪化して、妙な幻聴が聞こえたり、幻覚がみえたりするようになってしまうという、いってみれば身も蓋もない話。

といっても別に田舎の村で何かが起きるわけじゃなくて、ほとんどの出来事は彼の頭の中で起きている。神経衰弱が悪化した原因が田舎暮らしのせいではないというのは続編に『都会の憂鬱』という作品があることからも、なんとなくうかがえる。

そんな肥大した自我の影で、ほかの人間たちの扱いは限りなく小さい。特に彼の妻なんかはもっと重要な役割をになってもよさそうなのに、彼の理不尽な怒りにおびえてすすりないたりするだけの影の薄い存在だ。話は脱線するが、過去にたくさんいた虐げられた立場の女性たちが一方的に支配されただけかというとそういうわけでもなくて、たとえばその涙により空気を変えることにより間接的に男を支配してきたんだろう。それで相互依存的な関係が成り立っていて、うまくいっているといえなくもないんだけど、お互いにとって幸福とはいえなかったんじゃないだろうか。描かれてないけど、実は彼の神経衰弱の一因もそこにあったのかもしれない。けんかになってたとえ別れることになったとしても、いいたいことをいいあった方がはるかに健全だと思う。

老成といっていいような洗練された文体や、渋い行動パターン、それに杖を持ち歩いていたりするところから、主人公を疲れ切った中年男だと思っていたが、なんと20代前半の若者だった。そう思って読むと、かなり印象がかわった。

さて、散歩マニアのぼくとしては、当然彼らが住んだ村がどこにあるのかが気になる。「広い武蔵野が既にその南端となって尽きるところ」、「それはTとHとYとの大きな都市をすぐ六七里の隣にして」という表現から横浜郊外だろうと思ったら、解説に「神奈川県都筑郡中里村鉄」と書いてあった。今でいうと神奈川県横浜市青葉区鉄町あたりらしい。航空写真でみてみると、今もまだ農地や林が残るのどかな場所のようだ。今度いってみよう。