佐々木敦『ニッポンの思想』

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

佐々木敦さんのことを知ったのは、TBSラジオで毎月一回深夜に放送されている文化系トークラジオ Lifeという番組がきっかけだった。サブパーソナリティーとして番組に出演していて、ラジカルで鋭い話しぶりにすごい人だと思っていたが、たまたまこれまで著書を読む機会がなかった。基本的に音楽、文学、映画等のカルチャーに関する批評をしている人だが、本書のテーマはタイトルからわかる通り、「思想」。どんな切口で料理するのか気になって。発売された直後に書店にかけこんで購入したのだった。

1980年代からゼロ年代までのニッポンの思想シーンを年代ごとに3つに区切って、それぞれの年代に活躍した思想の「プレイヤー」とその「パフォーマンス」をくくりだし、そしてその変遷のメカニズムを「シーソー」という比喩で説明している。

80年代のプレイヤーは、「ニューアカ・カルテット」、浅田彰、中沢新一、蓮實重彦、柄谷行人の4人。現状を乗り越える思想であるはずが、当時隆盛をほこった消費社会の肯定・礼賛と受け取られてしまった悲喜劇として語られる。

90年代は福田和也、大塚英志、宮台真司の3人。80年代ニューアカが抱いていた楽観的なヴィジョンは経済状況の悪化もあってことごとく裏切られ、「理念」より「現実」というシーソーが作動する。その中から出てきたこの3人は、表面上の立場の違いはあれ、日本という場所に生まれたことを宿命として受け入れる点では共通している。ここでは、95年のオウム事件が思想シーンに与えた衝撃、そしてそれによって浮かび上がるニューアカの限界についても語られる。

ゼロ年代は東浩紀のひとり勝ち。本書で80年代からの思想の歴史が語られてきたのは、いわば、なぜ東浩紀がひとり勝ちをしているかを解き明かすためだった。

ゼロ年代に入り、出版不況などがあり、思想においても、売れている、売れていないという市場原理が前景化するとともに、規模としては縮小に向かった。そんな中、そのときどきのアクチュアルな問題に迫りながら、従来のゲームボードに見切りをつけ、新たにゼロ年代のゲームボードを構築したのが東浩紀だった。というような中国の王朝交代時に書かれる史書のようなラストで締めくくられる。いわば本書は東王朝の正史だ。

ほんとうに全編刺激に満ちていて一気に読み通してしまった。

筆者によると80年代の思想は「現状」に対して批判的だったが、90年代は留保付きで「現状」を肯定するようになり、さらに、ゼロ年代は、「こうだからこうなのだ」と「現状」を受け入れるだけになっている。正直、とても息苦しいのだが(かといって80年代にもどるというのもナンセンスだが)、何か抜け出す道はないのか筆者の佐々木敦さんにきいてみたい気がする。あとがきによると、近々、佐々木敦さん自身の思想が書かれた本が登場するらしい。楽しみに待つことにしよう。