三島由紀夫『新恋愛講座』

新恋愛講座―三島由紀夫のエッセイ〈2〉 (ちくま文庫)

三島由紀夫は『金閣寺』しか読んだことなかったが、たまたま目の前に本書があったので読むことにした。

エッセイ集だ。『新恋愛講座』(昭和30-31年)、『おわりの美学』(昭和41年)、『若きサムライのための精神講話』(昭和43-44年)の3つの連載が収録されている。連載していた媒体が、明星、女性自身、Pocketパンチ Oh! ということもあって、どれもとても軽い。軽すぎてなかなか手に取る気になれず、読むのに時間がかかってしまった。

あの『金閣寺』を書いたのと同じ人と思えないくらい、そのへんのちょっと文章が上手ななんというかふつうだった。作家には奇矯な人が多いけど、三島は例外的にふつうの人だったようだ。当時と常識というかふつうの人の思考様式にどっぷり染まっている。男女の性差は絶対的なものだと思っていて、現代の基準からするとセクシズムとしか言いようがない。

全体的に退屈なのだが、例外的におもしろさを感じたのは、『若きサムライのための精神講話』の最後から2つ目、『文弱の徒』というエッセイだ。ちょっと引用する。

しかしほんとうの文学とはこういうものではない。私が文弱の徒に最も警戒を与えたいと思うのは、ほんとうの文学の与える危険である。(中略)この人生には何もなく人間性の底には救いがたい悪がひそんでいることを教えてくれるのである。そして文学はよいものであればあるほど人間は救われないということを丹念にしつこく教えてくれるのである。そして、もしその中に人生の目標を求めようとすれば、もう一つ先には宗教があるに違いないのに、その宗教の領域まで橋渡しをしてくれないで、一番おそろしい崖っぷちへ連れていってくれて、そこで置き去りにされるのが「よい文学」である。(中略)

その錯覚からはさまざまなものが生まれる。自分は無力で、文弱の徒で、何の力もなく、この人生を変えることもできず、変革することもできないけれども、自分の立っている位置はあらゆる人間を馬鹿にすることのできる位置である。あらゆる人間を笑うことのできる位置である。それは文学のおかげで得たものだから、自分はたとえけんかをすればたちまちなぐられ、人からは軽蔑され、何ひとつ正義感はもたず、電車の中でタバコを吸っている人がいても注意もできず、暗い道ばたで女の子をおどかしている人と戦うこともできず、何ひとつ能力がないにもかかわらず、自分は人間の世界に対して、ある「笑う権利」をもっているのだという不思議な自信のとりこになってしまう。そしてあらゆるものにシニカルな目を向け、あらゆる努力を笑い、何事か一所懸命にやっている人間のこっけいな欠点をすぐ探し出し、真心や情熱を嘲笑し、人間を乗り越えるある美しいもの、人間精神の結晶であるような激しい純粋な行為に立ちする軽蔑の権利を我れ知らず身につけてしまうのである。

さすがに文学に対する洞察はすばらしい。そして、ここでいわれるような文弱の徒を自分の中に見いだすことをおそれていたことがうかがえる。

この連載から1年半後、昭和45年11月に三島は自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をしたわけだが、それは自分のなかの文弱の徒の部分をことさら否定するという動機が見えてくる。だが、そのために飛びついたものは、今から思えば、薄っぺらで凡庸な思想ともいえない思想だったわけだ。