ミシェル・ウエルベック(野崎歓訳)『素粒子』
初ウエルベック。す、すごい。
多層的に編み上げられた物語。第一にこれは父親の異なる一組の兄弟(1956年生まれの兄ブリュノ、1958年生まれの弟ミシェル)の人生に焦点をあてた年代記であり、第二に彼らの生を通じて20世紀後半いくところまでいった自由、個人主義、物質主義の命脈をたどる哲学小説であり、そして第三にそれら自由、個人主義、物質主義の後にくるものを描き出そうとした神話的SFでもある。
ブリュノとミシェルの母親の世代が初めてフルスペックの個人としての自由を手に入れた世代だ。彼女自身も自由を満喫し奔放に生きた。そのせいで、彼らは個別に祖母たちの元で育てらることになってしまったが。彼らは母親ほど自由を楽しめなかった。ここでいう自由の大きな部分を占めるのはセックスだ。セックスは個人化され対象と機会は増大したが激しい競争にまきこまれその隙間をついて快楽を得たとしてもむなしさが残るだけだ。ブリュノはコンプレックスに苛まれながらも果敢に(そしていささか滑稽に)その競争に挑んでゆくが、ミシェルはもともと欲望が強くないこともあって遺伝子研究の世界に閉じこもる。非モテという一枚のコインの裏表だ、彼らはそれぞれ愛をつかもうとするが時既に遅く結局無残な結末をむかえる。
ウエルベックはまるで昆虫の生態を描くような緻密さで彼らの生を描いていて、読んでいると痛々しくて居心地の悪さのようなものを感じる。彼の作品を読んだ人が苦々しい感想を書いているわけがようやくわかった。
自由、個人主義、物質主義は批判的に描かれるが、かといってそれ以前の封建的で牧歌的な状態に大きな痛みを伴わずに戻るのが不可能であることは前提条件だ。ヒッピーやニューエージのムーヴメントも否定的に扱われている。かわりにこの小説の中で提示されるのは『幼年期の終わり』みたいなより進歩した新人類誕生だ。もっともその詳細については語られない。この物語はその新人類によって語られているのが最後に明らかになる。それがユートピアなのかディストピアなのかはよくわからないままだ。
フランスを含むヨーロッパ社会は2016年現在テロの頻発で自由、個人という屋台骨が揺らいでいるようにも見えるけど、長い目でみれば一時的な現象のような気もする。
ひるがえって日本社会にも不十分ながら自由と個人主義は広がっているものの(最近はそれの動きを逆流させようというアナクロな勢力が政治的に力をもっているが彼らもそれに関してはあからさまなことはできてない)生身のセックスは逆に減っていてエロコンテンツの隆盛という奇妙な形で性の解放が進んでいる。そこでの非モテの生き方は当然ヨーロッパ社会とは異なるはずで、同じテーマで日本を舞台にした物語を読みたくなった。