トーマス・マン(関泰祐・望月市恵訳)『魔の山』

魔の山〈上〉 (岩波文庫)

魔の山〈下〉 (岩波文庫)

カラマーゾフの兄弟』を読んだときにも感じたが、古典がなぜ古典として残っているかというと、単純におもしろいからだ、ということがよくわかった。

時代は20世紀初頭、単純無垢なハンス・カストルプは結核で療養している従兄の見舞い方々、休息をとるためにスイス山中のサナトリウムに3週間の予定で滞在する。ところが、ハンス・カストルプ自身にも軽度の結核がみつかり、3週間の予定の滞在はその何十倍にも引き延ばされることになる。病人であることがもたらす圧倒的な自由と引き延ばされた時間感覚に幻惑されながら、否応なく比重が高まってしまった精神世界に向き合わされる。

その案内役を買って出るかのように最初に現れるのが、セテムブリーニという自由、進歩主義者。ギリシア、ローマの古典時代、ルネサンス以来の人文主義の伝統、そして、個人の自由と権利拡大のための政治運動の歴史、双方の衣鉢をつぐような存在だ。元来保守的な心性をもつハンス・カストルプは彼の言説に魅了されながらも、内心反発を感じ、半ば偽善的に重病者を慰める活動をしたりするのだけど、後半、さらにその反発を過激に体現させたかのような人物ナフタが登場する。

ナフタはイエズス会に属するカトリック教徒であり、反動的な保守主義者の顔をもちながら、科学、知性、進歩といったセテムブリーニが賛美するものに、懐疑をなげかけ、共産主義やテロへの共感を語り、死、戦争を賛美する。そして、ことあるごとに、セテムブリーニの思想は過去の遺物だといいつのる(もうこの時代からそういわれていたのか!)。実際、本書で語られるセテムブリーニの考え方は、教条的というか通り一遍のようなところがあるし、ナフタの思想の方がポストモダン的で耳新しく聞こえる。結果としてナフタのほうがそのあたに引き続く戦争の世紀を的確に予言していたともいえる。でも、セテムブリーニが奉じる科学、知性のおかげで、その後1942年に結核の治療法が発見されたわけで、その後の人たちは、本書の登場人物のように死んだり、人生を棒にふったりすることはなくなった。結核が不治の病でなくなったことは、死生観に大きな影響を与えたと思う。その後、大きな戦争が少なくなった一因はそこにあるかもしれない。

そんなこんなでぼくは本書の登場人物の中でセテムブリーニが一番好きだ。お茶目な人柄も好感ポイントだ。

さて、この二人の対立は、倫理の基礎を、生におくか、死におくかの違いだ。どちらにおいても、倫理体系は構築できるし、いくつかの場合で、その帰結は一致する、でも別の場合には深刻な対立をうむのだ。ハンス・カストルプはそのどちらの思想にもとりこまれることなく、ついには雪中に迷ってみた夢の中で、生の倫理と死の倫理を融合するような人間愛の境地をつかのま垣間見る。

この物語はそこでおわってもよかったのだが、まだまだ続く。人間愛の境地を垣間見ても、そのあといくつかのつらい別れを経験しても、彼はそれによって人間的に成長しているようにはみえない。そうして山の上で7年もの月日が流れていった。彼を平地にひきもどしたのは、晴天の霹靂、第一次世界大戦の勃発だ。それで、山をおり、一兵士として祖国のために戦おうとする。まるで山の上で起きた出来事や、彼が胸のうちで育んできた思いは、すべて夢だったようだ。もし、彼が山にこなかったとしても、同じように戦っただろう。彼が山から持ち帰ったものは、シューベルトの『菩提樹』の歌のみ。それを口ずさみながら、おそらく彼は死んでゆく、1900万人もの死者の一人として。

このラストは、最初ちょっと唐突な気がしたけど、実はちゃんと最終章の中に伏線がはってあった。

しかし、魂の魔術の最良の子供は、その魔術の克服のために生命をけずって死ぬ人間であろう、愛の新しい言葉を、彼がまだいいあらわせなかった言葉を唇にただよわせながら。その魔術の歌のために死ぬのは、きわめて意義ぶかいことである!しかし、その歌のために死ぬのは、ほんとうはもうその歌のために死ぬのではなく、愛と未来との新しい言葉を心にひめつつ、じつはその新しいもののために死ぬのであって、その意味では英雄の死である-—

つまり、ハンス・カストルプは、単なる一兵士としてではなく、愛と未来との新しい言葉のために、英雄として死んでゆくのだ。まあ、そういうことなんだろうけど、なぜそのあたらしいものが死と引き替えでなければいけないのか、その究極のところはよくわからない。トーマス・マンはどちらかといえば死に親しみを感じてしまうタイプの人間なのだろうけど、生の方にがんばってシフトしようとしていたのかもしれない。そのあたりが、奇怪な印象をあたえる降霊術の場面にあらわれている気がする。

1ヶ月以上かけて読み終えたので、ぼくもハンス・カストルプと一緒にずっと山の上にいたような気がする。しばらく平地の空気にはなじめそうにない。

最後の最後の蛇足だが、ハンス・カストルプが思いを寄せるショーシャ夫人を演じるとしたら、シャーロット・ランプリング以外考えられない。ちょっと古いかな。