古川日出男『聖家族』
すみません、て誰に謝っているかよくわからないけど、つまりはピンと来なかったのだ。この厚さ5cmの真っ赤な本が。だめな本というつもりはさらさらなく、これまでにない新しい世界が意欲的に描かれているのはわかりすぎるくらいわかる。でも、コアにあるものがぜんぜん届いてこなくてほんとうにもどかしかった。
ぼくが受け取ったのは、司馬遼太郎にバイオレンスとオカルトを加えてポストモダンでシャッフルしたもの。もちろん、それはこの小説の実像とはちがうんだろう。そもそも司馬遼太郎読んだことないし。
あえて申し開きをさせてもらうと、この本に描かれている暴力と死、それに生を肯定できるものは、血と地、つまり異類の流れをひく血統と、東北という場所のもつ地縁(というより地霊)しかない。でも、ぼくは、そんな血統と地縁が途切れた場所、時間からしかはじまりようがないと思っている。少なくともぼく自身にとっては絶対的にそうなのだ。本書の中に、新約聖書のマタイの福音書の「アブラハムがイサクを儲け、イサクがヤコブを儲け、ヤコブがユダを儲け、……ヤコブがヨゼフが儲けた」という記述が、ヨゼフの妻マリアが生んだのがヨゼフの血のつながらないイエス・キリストであることを考えると、何を意図したものかわからないというようなことが書かれた部分があるけれど、ぼくにいわせれば、これは系図が切れることに意味がある。キリスト教というのはそれまでの血縁、地縁を断ち切って、すべての人を神の子としてユニバーサルな場所に再配置したのだ。ぼくはキリスト教徒でも何でもないけど、それはほんとうにすごいことだと思う。
いやいや、それでもひとまとまりの虚構として提示されていれば、その内部世界の中で楽しむ術をみつけられたと思うんだけど、今回それぞれの物語は断片化されていて、時代や視点が切り替わる度にどうしても現実世界へのフィードバックを意識しないではいられなかった。それがよくなかったのだ。