中平卓馬『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』
写真家中平卓馬の1967年から1971年にかけての評論集。もともと編集者なので、感覚的なところは少なくて、どこまでもロジカルでかつ戦闘的だった。そういう意味では写真家中平卓馬としての著作ではなく、評論家中平卓馬の著作といったほうがいいかもしれない。このあと1977年に生死の境をさまよって記憶喪失、失語症に陥り、写真家としては復活を遂げるものの、評論家としてのキャリアはそこで途絶えたままだ。
収録されているのは映画、美術展、演劇などの評論、時評など多様だ。だがその中心にはひとつのこと、「イメージ」批判があって、くりかえしくりかえし語られている。
「イメージ」とは「(先験的に)作家たる個がもつ世界についての像」のことで、つまり世界を把握したりフィルタリングしたりする際のテンプレートを指している。このイメージが強ければ強いほど芸術家としてすぐれているということになっていて、鑑賞する側も、作者のイメージを外化した作品を自分のイメージと重ね合わせることでその優劣を判断してきた。でも、それはあるがままの世界を見つめずに目を閉ざすことなのではないか。私のイメージの向こう側に立ち現れた世界と無限に出会うこと、そのプロセスこそが、従来の芸術活動にとってかわるべきだ、という。そして、情緒やポエジーを捨て図鑑やカタログのように世界をとらえる新たな表現への希望が語られる。
書かれた時代のせいもあるが、マルクス主義的なアジテーションがところどころに顔を出す。論評の中では(現実の運動としてのマルクス主義に筆者自身すでに絶望していただけにかえって)価値判断の基準となるメタな歴史認識として登場しているのは、それもまたイメージにほかならないと思ってしまった。
さて、ネット掲示板、携帯電話の写真、ケータイ小説など、作家性の薄い匿名的な表現が雨後の竹の子のように育っている現在、ある意味それらは世界をあるがままにとらえているのかもしれない。でも、それは新しい世界との出会いではなく、中平卓馬が危惧していたように、今のところ既存のメディアが作り上げてきた世界の劣化コピーにしかなっていない。評論家中平卓馬はそれらをみて何というだろうか。