シオドア・スタージョン(矢野徹訳)『人間以上』

人間以上 (ハヤカワ文庫 SF 317)

形式的には長編小説ではあるが、ひとつのテーマのもとに書かれた3つの中編小説といったほうが近いかもしれない。この作家の本領は短・中編と思ったぼくの直感はそれなりに正しかったようだ。

世間から見捨てられているが実は超能力をもつ子供たちが登場するいわばミュータントものなのだけど、特筆すべきなのは、彼らが集団でひとつの個体としてふるまうというアイデアだ。彼らはホモゲシュタルト(集団人)と呼ばれる。現人類にとってかわるべく、より進化した形態なのだ。

確かに、集団で行動することにより彼らのパワーは桁違いになるし、一人が死んでもほかのメンバーを加入させることにより集団としての生命は続くのだけど、別に変な風に融合したりするわけじゃなく、個人は個人のまま行動することもできる。ホモゲシュタルトは個体というよりはむしろ共同体だ。短編や中編でみてとれた人間同士の多様なつながりを模索するスタージョンの倫理的な姿勢がここにもあらわれている。

ホモゲシュタルトはどういう道徳をもつべきなのか、とスタージョンは問いかける。いわゆる「道徳」は「個人が生存するための社会のおきて」であり、たったひとりきりのホモゲシュタルトは持つことができない。「倫理」は逆に「社会が生存するための個人のおきて」だが、社会のないホモゲシュタルトには意味がない。そこで登場するのがエートス(本書では「品性」と訳されているがむしろ「規範」の方がしっくりくる)だ。それは、社会という水平方向ではなく、世代間をつなぐ垂直方向の信頼関係なのだ。

たぶんスタージョンはホモゲシュタルトのためではなく、ぼくらホモサピエンスのためにこんなことを考えていたのだ。あるいはホモゲシュタルトというのはぼくら自身のことなのかもしれない。

訳はかなりいただけない。この作品に限らず古典SFをまとめて訳し直すべき時期にきていると思う。

追記: 考えてみると、人類が進化すると集団的な形態をとるというのは、文脈次第ではコミュニズム賛歌とも読める。スタージョンはそのあたり意識的だったのだろうか?

お勧め★