内田百閒『東京日記 他六編』
夏目漱石と内田百閒は期間は短いけど一応師弟関係にあり、夏目漱石の『夢十夜』と内田百閒の夢幻的な諸作品が比較されたりするけど、作品からうかがえる気質は、漱石がパラノイアなのに対し、百閒は明らかにスキゾで対照的なような気がする。
百閒は夢やそれに類するものを題材にしていると思うのだけど、ふつう物語として辻褄をあわせようとするところを、そういう作為を放棄して、あるがまま荒唐無稽に描いている。しかもある出来事を出来事というひとつのかたまりとして描写するのでなく、音、光、においなどの構成要素に分解して表現している。盲人を主人公にした『柳検校の小閑』は百閒にしては現実的な作品だけど、光を欠いて、音とにおいに対して鋭敏になった感覚が不思議な非現実感をかもしだしていた。
ひとつ気がついたのが、「締まりがなくなる」という表現が何度も出てくることで、これは直接は外部の事物についていっているのだけど、それを感覚として受け入れて出来事としてまとめあげる内部の統覚についていったものなのだろう。つまり現実感の喪失だ。
上に挙げた『柳検校の小閑』や『長春香』は共に、関東大震災で亡くなった年若い女性への追慕の念を軸にしたセンチメンタルな作品で後味がたまらないけど、やはり百閒の真骨頂は幻想的、もっというと「締まりがない」作品で、特に『東京日記』の締まりのなさは具体的な地名があげられている分だけすごい。『東京日記』の地図を作ってみたので、以下にリンクをはりつけておく。